2021年7月1日木曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第10回


東照大権現と徳川イデオロギー

政治的権威の神格化と社会制度の絶対化


 前回までの講義では、徳川幕府の宗教政策の形成過程と「仏教/宗門」として定義される宗教勢力が、幕藩体制の下部組織として組み込まれていく過程を確認してきました。

 織田信長・豊臣秀吉の時代に、一度壊滅的な打撃を受けて武装解除され、政治的な自律性を失って、政治的権威のもとで再編成された宗教勢力は、飼い慣らされた野生動物が生命維持に必要となる安全な生活環境や、十分な食料を与えられることと引き換えに行動の自由を奪われるように、政権に従順な組織機構を形成していきます。

 この歴史的な過程には、もちろん金地院崇伝による意図的な寺院の本末関係の確立宗派組織の整備はありましたが、島原の乱のような突発的な事件も大きな影響を及ぼします。

「邪宗門」であるキリスト教/切支丹/耶蘇を取り締まる過程において、正当な「公儀の宗教」として、幕府の政策に従順な宗教勢力は「宗門」に組み込まれて行きます。その一方で、日蓮宗不受不施派などの政権に従順ではない宗教勢力は、キリスト教とともに弾圧の対象となりました。

 こうした宗教政策が「宗門改め」「寺請制度」によって制度化されると、各地の「宗門」に属する寺院の役割は「宗門」と「邪宗門」の判別から、戸籍や社会生活の管理に移っていき、地域の寺院は町役場や市役所、さらには学校のような公的機関の役割を果たすようになっていきました。

 いわゆる「仏教/宗門」が、形式的に「国教」のようになるこの状況は200年以上継続し、この間に庶民の生活様式を変えて、現在にまで残存する日本人の宗教的「心性」に大きな影響を及ぼしていくことになります。


天下人の神格化と東照大権現

 これらの諸制度をイデオロギー的支える役割を果たしたのは、織田信長や豊臣秀吉と同じように、神格化された徳川家康の政治的/宗教的権威でした。

 元和2年(1616)に徳川家康が駿府城で死去すると、次のような遺言に従って、遺体は駿府の久能山に埋葬されます。

「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」(『本光国師日記』)

 家康の葬儀は、浄土宗の大本山である江戸の増上寺で行なわれます。もともと、徳川氏は浄土宗と深いかかわりがあり、家康にも浄土宗の戒名がつけられました。この後、徳川氏の菩提寺として増上寺は、江戸時代を通じて全盛期を迎え、現在の芝公園近辺の広大な寺有地に、120を超える堂宇と100軒を超える学寮が建ち並び、3,000人以上の学僧が常住する学問の中心地・発信地になりました。




 位牌は、松平家の菩提寺である三河の大樹寺に収められ、これ以降代々の徳川将軍の等身大の位牌が大樹寺に収められることになりました。

 遺体は久能山に埋葬され、東照社が創建されます。しかし、遺言に従って一周忌を経て神霊が勧請されて、日光の東照社にも祀られることになりました。このとき、「神柩」を運ぶ壮麗な改葬の行列が仕立てられたとされ、この様子を描く「東照宮縁起絵巻」がいくつもつくられました。




 ただし、この「神柩」に遺体が収められていたかどうかは、定かではありません。しかし、この分霊は「八州の鎮守(日本の守護神)」となる、という家康の遺志によるものだと伝えられています。信長や秀吉のように、家康は自らの政治的権威を神格化する意図を持っていたのではないでしょうか。


天海と日光東照宮

 家康の神格化に大きな役割を果たしたのは、家康の宗教政策を指導したもう一人のブレーンである、南光坊天海(1536~1643)でした。



 家康の晩年に近しい関係を築いた天海は、織田信長によって壊滅的な打撃を受けた比叡山を本山とする、天台宗の再建に尽力します。織田信長によって焼き討ちされた比叡山は、豊臣秀吉の時代に再建をはじめます。この再建を加速させるのは、徳川幕府の基盤を整備し、家康の祀られる日光を整備する三代将軍・徳川家光です。

 もちろん、比叡山の再建自体にも天海は深く関わりますが、江戸の幕府を中心にした新しい政治体制を基盤として、天海は関東を中心にした天台宗の再建を進めます。慶長18年(1613)には、「関東天台宗法度」によって、川越の喜多院を関東天台宗の総本山(東叡山)とします。

 元和3年(1617)に、一周忌を経た家康の分霊を日光へ移すにあたっては、家康を祀る「神号」をめぐって、家康の宗教ブレーンであった、金地院崇伝南海坊天海の二人は激しく対立します。

 豊臣宗家を滅ぼしたあと、家康は秀吉を国の守り神として祀った豊国神社を徹底的に破壊しました。このとき、秀吉に与えられていた神号も剥奪されます。崇伝は、秀吉と同じよう家康を「明神」として祀ることを主張しますが、天海は「権現」号を主張しました。

 大明神として祀られながら滅亡した豊臣宗家を引き合いにだしながら、天海は天台宗の神仏習合思想である山王一実神道にもとづいて「権現」号を採択するように迫ります。結局、二代将軍・徳川秀忠による裁定によって神号は「権現」号に決定し、幕府が朝廷に奏請した神号をもとに、勅許によって「東照大権現」の神号が決定しました。

 その後、家康の分霊が日光に移され、久能山と日光の二つの東照社が分立しました。正保2年(1645)には、朝廷から宮号を賜り「東照宮」となります。

➡神君家康の誕生




寛永寺の創建と東照宮の展開

 家康の死後も2代将軍・秀忠、3代将軍・家光のもとで徳川幕府の宗教政策を担った天海は、寛永2年(1625)に秀忠の寄進を受け、江戸に東叡山の寺号をもつ寺院を創建しました。これが上野の寛永寺です。

 京都の鬼門(北東)を守る比叡山と同じように、江戸城を守る鬼門(現在の上野公園)となる広大な土地に、山号を「東叡山(東の比叡山)」とする大伽藍を建立します。初代貫主となった天海の没後は、2代の公海を経て3代以降は勅許によって皇族から後継者を招くようになり、4代将軍・綱吉以降は増上寺と並ぶ徳川家の菩提寺としても権勢を誇ります。




 3代貫主となった、後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王は、承応3年(1654)に寛永寺貫主となり、日光山主を兼ねるとともに、翌明暦元年(1655)には天台座主も兼ねることになります。以後、幕末に至るまで皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めました。

 寛永寺の貫主は「輪王寺宮/東叡大王」と尊称され、日光・上野・比叡山を統括(三山管領)し、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威を与えられました。東国に皇族を常駐させることによって、朝廷をけん制した側面があったとも考えられています。

 この「輪王寺宮」の権威を中心に、かつて比叡山が京都の朝廷と結びついていたように、幕府と深く関わる宗教的権威のもとで、日本中の門跡寺院が再編成されていきます。

 天海は、比叡山の守り神である山王(大山咋神)釈迦如来(大日如来)及び天照大神の本地とし、家康を鎮護国家の神君として祀ることによって、古代・中世以来の宗教的権威をも幕府の権威のもとに位置づけていきました。


徳川家光と東照宮

 この「神君」家康の権威をより盤石なものとしたのは、徳川幕府の支配体制の礎を築く3代将軍・徳川家光です。




 寛永11年(1634)、家光は「日光社参(将軍が日光に参拝する行事)」し、初代将軍である徳川家康の21年神忌に向けて、「東照大権現」を祀る東照社を整備し直す壮大な計画を打ち出しました。しばしば、伊勢神宮の「式年遷宮(20年に一度の建て替え)」との関連性も指摘されるところです。

 この大規模な日光の改築は「寛永の大造替」と呼ばれ、450万人とも言われる人々が関わる大工事となります。現在の日光の壮麗な伽藍は、基本的にこのとき整備されました。この後、正保2年(1645)には勅許によって、東照社から東照宮に改称することが認められ、徳川家康は、国家を守護する「日本之神(八州の鎮守)」として祀られるようになります。

 多種多様な「東照社縁起」が普及し、各地に「東照宮」が勧請されて、東照宮の分社は全国で500社を超えるまでになったと言われています。さらには、正保4年(1647)より幕末の慶応3年(1867)まで、221年間にわたって朝廷からの「奉幣(天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献すること)」が恒例となり、毎年朝廷から「奉幣使(日光例幣使)」が派遣されるようになります。つまり、伊勢神宮への例幣使と同じように、家康を神として祀る東照宮へ朝廷から使者が送られたのです。

 こうして、信長や秀吉も試みた政治的権威の神格化は、徳川幕藩体制の確立とともにより具体的に制度化したかたちで成立することになりました。

 幕藩体制と東照宮の関係については、次のようにまとめることができるでしょう。


①天海による家康の神格化と東照宮を中心にする門跡寺院の再編成。

 →中世以来の宗教的権威と朝廷の権威を幕藩体制下に組み込む。

②鎮護国家の役割を担った比叡山と朝廷の関係を、東叡山を中心にした体制に組みかえる。

 →「天道」を超越した東照宮/神君の権威のもとで、幕藩体制の秩序を正当化。

③幕藩体制を維持するイデオロギーは、東照神君の権威と東叡山のシステムによって強化される。

 →政治的権威による宗教的権威の再編成。


*次回は、本末関係や寺請制度によって形式化/国教化した「宗門」としての仏教と徳川家の政治的権威を神格化し幕藩体制のもとで、人々の日常的な信仰生活や宗教活動に生じた変化について紹介しましょう。