2021年6月19日土曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第9回

 
宗門改めと寺請制度

「仏教」の国教化と非「宗教」化


徳川幕府の宗教統制の特色

 織田信長や他の戦国大名たちによって壊滅的な打撃を受けた古代・中世以来の宗教的権威及び宗教勢力は、豊臣秀吉によってさらに厳しく攻撃される一方で、秀吉の新しい政治的権威のもとで再編されていきます。

 検地や刀狩りによって武装解除されるとともに経済的基盤を完全に管理された宗教勢力は、まるでコントロールできない野生の動物が飼い慣らされて家畜化するように、主体的な活動の自由と自治権を放棄し、政治的権威に服従するかたちで再生することを許されました。

 秀吉が京都に築いた大仏は、この新しい政治と宗教の関係を象徴するものでした。こうした秀吉の宗教政策の原型は、総見寺に自らを祀らせた信長の宗教政策に見ることができます。

 徳川幕府の宗教統制は、信長・秀吉以来の新たな政治と宗教の関係をより厳格な法制度によって強化し、制度化するものでした。本山ー末寺の関係を再構築し、すべての寺院と宗教・文化活動を寺社奉行の管轄下に置くことで、江戸幕府はかつてはコントロール不能であった宗教勢力を幕藩体制に組み入れ、幕府の支配体制を支える下部組織に位置づけていきます。




 こうして”再編”された「仏教」勢力は、幕府の管轄下でほぼ日本全域をカバーし、ある意味ではこの時期にはじめて、「仏教」は日本の「国教」といえるような状況になりました。しかし、その一方で近世の仏教は「形式化」し、堕落したと揶揄されることにもなります。

*ここで「仏教」に「 」を付けているのは、江戸時代の「仏教」は神社や山岳信仰のような民俗信仰を包含する存在であり、現在のような日本仏教の諸宗派の総称としての仏教とはかなり異質な概念であるからです。しばしば、「宗門」と表記される「公儀の宗教」は、現在の仏教よりはかなり広い概念です。ちなみに、現在の「仏教」概念は、明治以降の日本において形成された、近代的「宗教」概念とともに成立します。

 こうした、宗教勢力の幕藩体制の下部組織への組み込みと社寺勢力の一元的管理を加速化させたのは、切支丹/邪宗門の禁制とともに成立する「寺請制度」「宗門改め」でした。


徳川幕府の禁教令

 織田信長は、寺社勢力との対立もあってキリスト教には寛容な政策を行ないました。しかし豊臣秀吉は、晩年になって、スペイン・ポルトガルへの不信感をつのらせ、天正15年(1587)にいわゆる「バテレン追放令(吉利支丹伴天連追放令)」を出して、国策と連動しながら海外での布教活動を続けていた、カトリックの伝道修道会(イエズス会やフランシスコ会)の活動を中心に、キリスト教を禁教として弾圧を加えました。

 自らの政治的権威のもとで、宗教勢力の非武装化完全服従を条件とした再編成を進めていた秀吉にとって、政治的コントロールの及ばないバチカンの指示に従うキリスト教勢力は邪魔な存在になってきます。また、しばしば指摘されているように、「一向宗」のような政治的な敵対勢力を生みだす元凶になるのではないか、と危惧したことも否定できないでしょう。

 徳川幕府の宗教統制にとっても、キリスト教は①政治的コントロールが及ばない存在であること、及び②敵対的な宗教勢力の温床になる可能性、という双方の理由から規制すべき対象と考えられることになります。

*ちなみに、これらの①・②は、織田信長の天下統一事業を妨げた、2種類の宗教勢力の分類にちょうど対応しています。

 慶長18年(1613)には、金地院崇伝「伴天連追放之文」を起草し、徳川幕府も本格的にキリスト教の規制に踏み出します。崇伝が一晩で書き上げたとされるキリスト教の排除令には、日本は神/仏に護られた国であることが強調されています。




 幕府直轄地へのキリスト教禁止令有馬晴信のような、いわゆる「切支丹大名(キリスト教に改宗した地域の支配者)」への弾圧からはじまる政策は、全国的なキリスト教の弾圧につながり、寛永10年(1633)の「第1次鎖国令」に至って、諸外国との交流の規制にまで発展することになりました。


島原の乱(寛永14年~15年)

 こうしたなかで、幕府のキリスト教・禁教政策を加速化させる大事件が起こります。




 代表的なキリシタン大名であり、幕府によって処刑された有馬晴信の領地であった島原の農民・キリスト教徒たちが蜂起し、有馬氏の古城であった「原城」に立てこもって内乱を起こす、という事件が起きます。

 「島原の乱」の名で知られるこの一揆では、3万人を超える農民が有馬氏の転封のあとで新たな領主となった松倉重政・勝家に反乱を起こします。その理由には、新たな築城にともななう重税などもあったようですが、基本的にキリスト教の信仰にもとづく宗教的な反乱の傾向が強い一揆でした。

 天草四郎を総大将とする籠城軍は、幕府から派遣された討伐軍と交戦し、当初の討伐軍の総大将であった板倉重昌が戦死するほど奮戦しますが、結局は松平信綱の率いる討伐軍に鎮圧されました。しかし、江戸時代を通じて最大の内乱になったこの事件を契機として、幕府のキリスト教の禁止鎖国政策は厳しさを増していきます。



 籠城した反乱軍は徹底的に殲滅され、内通者の一人を除いて全員死亡するという凄惨な結果になりました。かつて原城の跡地を訪れたとき、目前に広がるのどかな美しい景色と凄惨な戦闘の歴史とのギャップを強く感じたことを覚えています。

 この反乱を鎮圧するために、幕府は人的にも経済的にも極めて大きな損失を被りました。また、宗教的な反乱を鎮圧することの難しさをあらためて痛感します。島原の乱のあと、幕府は鎖国政策をより厳格化し、長崎・出島を通じたオランダ中国との交易以外は認めない、いわゆる鎖国政策をとるようになります。


寺請制度と宗門改め

 こうした状況のもとで、キリスト教の禁止を徹底するために確立された政策が「寺請制度」です。

 寺請制度は、幕藩体制下において民衆を必ずどこかの「仏教」宗派に所属させ、寺院(檀那寺)の檀家(檀徒)となることを強制した制度(檀家制度)のことです。ここでの「仏教」は、先に説明したように、現在の仏教よりはもう少し広い概念です。だから、地域の寺院の檀家になるということは、現在においてどこかの宗教の信者になることと同じではありませんでした。

 このため、所属する寺院の宗派の開祖基本的な教説などについて、檀家(檀徒)でありながらまったく知識がない、といった状況が生じます。現在でも、日本人の多くが仏教徒でありながら、所属する寺院の宗派の教えや開祖について、上手く説明できないケースが多いのはこのためです。所属する寺院の宗派の名前(〇〇宗)は言えても、開祖の名前さえ知らないという人は、決して少なくないのではないでしょうか。

 島原の乱以後、幕府はすでに進めていたキリスト教の禁止をより厳格化していきます。そして、キリスト教徒を摘発するために、民衆の信仰を確認する調査が「宗門改め」でした。宗門改めによって、檀家として寺院に所属することが確認された人は、本人がその寺の檀家である―つまり、キリスト教徒ではない―という証明書を発行してもらいました。

 これが「寺請証文」です。

 現在の戸籍と同じように、地域の寺院に檀家の出生地生年月日を届けさせ、それにもとづいて、婚姻・旅行・就職・移住などの際に、邪宗門ではないという証明書(寺請証文)が発行されました。ちょうど、現在の住民票戸籍抄本のような感じでしょうか。

 これによって、地域の寺院は現在の市役所町役場のような地域社会の中心となる施設になり、「仏教」は幕藩体制を支える下部組織に組み込まれていくことになります。




 まず、慶長18年(1613)頃から、キリスト教徒の多い地域や一部の社会階層で寺請制が実施されます。本来はキリスト教の排除と監視のために整備された制度でしたが、時代が下るにつれて、僧侶を通じた民衆の管理に重きが置かれるようになります。

 圭室文雄『江戸幕府の宗教統制』 (日本人の行動と思想〈16〉) によれば、寛永12年(1635)頃には、全国的に寺院過去帳に姓を持たない庶民の記載が増え、かなり寺請証文(寺檀契約状)の発行が増えています。つまり、この時期にはすでに、寺請制度の役割は、キリスト教の取り締まりよりは、むしろ寺院を通じた民衆の統制・管理のほうへ移っているのです。



 さらに、寺請証文のもとになる「宗旨人別帳(宗門人別帳)」は、現在の戸籍に近い記録として、各地の寺院によって管理されることになります。



「宗旨人別帳(宗門人別帳)」は、元来は「宗門改め」の際に作成した帳簿であり、この帳簿に記載されていることが、キリシタン(あるいは他の邪宗門の信者)ではないことを証明し、身元を保証する身分保証になりました。「宗門改帳」・「宗門改人別帳」・「宗門人別帳」などと表記されました。

 キリシタンの摘発をおもな任務として、寛永17年(1640)に設けられたキリシタン奉行は、宝永年間(1704~11)以降に「宗門改役」と改称され、「宗旨人別帳(宗門人別帳)」は、邪宗門の取り締まりよりは主に民衆の戸籍管理の役割を果たすようになります。しばしば、「踏絵」などによって強調される宗門改めのイメージは、あまり当時の実状にはそぐわないようです。

 戸籍に類する制度として「宗旨人別帳(宗門人別帳)」が機能するようになると、新生児は出生を地域の寺院に届出し、それによって身分保障を得ることになります。こうして、日本中の民衆は、ほぼ全員何らかのかたちで寺院に所属することになり、当時の日本において仏教は、形式的には「国教」になった、と言っても良い状況になりました。「徳川禁令考」に残る当時の通達によれば、人別帳の役割は、ほぼ民衆の生活の管理にあることがよく分かります。




 これによって、寺院に所属する檀家と菩提寺の関係は、葬儀や法要などに限定された極めて形式的なものとなりました。このことが、近世の仏教がしばしば「葬式仏教」などと揶揄される原因になります。

 しかし、「邪宗門」(公儀の宗教である「宗門」に属さない非公式の宗門)として排除されたのは、決してキリスト教だけではありませんでした。




 たとえば、豊臣秀吉の千僧供養の呼び出しに応じず、厳しく弾圧された「日蓮宗不受不施派」は、切支丹と同じく「邪宗門」として禁制扱いになります。

 文禄4年(1595)に、 日奥(1565~1630)が秀吉の千僧供養への出仕を拒否したあと、政治的権威への服従を拒絶するポリシーを貫いて、不受不施派は、慶長4年(1599)に家康の招聘も拒否します。

 寛永7年(1630)には、 日蓮宗他派との論争を行なったことを理由に、日奥は対馬へ配流されます。さらには、寛文9年(1669)に不受不施派による寺請は禁止になり、キリシタンと同じように幕府から邪宗門として弾圧されることになりました。

 このほかにも、薩摩藩の「かくれ念仏」や他所の「秘事法門」など、一向宗(真宗)系の活動も「邪宗門」としてしばしば弾圧され、各地で「地下信仰」が発達します。公認の「宗門」と非公認の「邪宗門」という区分は、明治以降の日本の宗教政策にも形式的に継承されていきました。

 次回は、これらの宗教統制を可能にした要件の一つである、「神君/徳川家康」政治的権威の神格化について、詳しく紹介したいと思います。

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