2021年5月14日金曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第4回

 豊臣秀吉の宗教政策①

中世の宗教的権威の解体と再構築


 現在、新型コロナウイルスの感染拡大のためにリモート講義が続いていますが、感染状況が落ち着けば、再び対面形式の講義に戻る予定です。学期末の試験も行ないますので、しっかりブログの内容を理解して、グーグルフォームの質問に答えてください。

 前回の講義では、織田信長の極めて個性的な宗教政策の一端を紹介しました。信長は、古代・中世以来の日本の宗教的権威と政治的権威の関係を逆転させて、自らの政治的な権威を宗教的な権威の上に置く政策を実行していきます。その過程でキリスト教や西洋の文化に触れますが、キリスト教に改宗するではなく、自らの政治的権威を神格化しようとします。

 こうした政策の背景には、幾度となく信長の行く手を阻んだ、旧来の寺社勢力や新興の宗教勢力(一向宗や法華宗)との激しい対立がありました。また、古い政治・文化の枠組みが解体し、新たな価値観のもとで社会が再構築された時代に信長が生きたことも大きな理由の一つでしょう。フロイスが記録した信長の御触書については、その信憑性が乏しいとの指摘もあります。しかし、少なくとも信長が先鞭をつけた政治的権威と宗教的権威の関係性の逆転は、豊臣秀吉や徳川家康の宗教政策に継承されていくことになります。

 本能寺の変で倒れた信長の天下統一事業を継承したのは、謀反を起こした明智光秀ではなく、光秀を倒した豊臣秀吉でした。


山崎の戦いで明智光秀を倒し、さらに賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を攻略して信長の家臣団をまとめた秀吉は、小牧・長久手の戦いで新たな政権の基盤を確立しました。この講義は、宗教政策に焦点を置いていますので、豊臣政権確立の詳細な経緯は省きます。

 秀吉は信長の家臣団とともにその政策の多くを継承しますが、宗教政策においては少なくとも初期の段階では、信長と同じように敵対する宗教勢力を徹底的に殲滅しました。


 天正13年(1585)に秀吉は、まだ信長が攻略していなかった宗教勢力の一つであった紀州の真義真言宗の勢力を徹底的に攻撃します。その理由は、小牧・長久手の戦いの際に根来衆や雑賀衆が秀吉の背後を脅かしたからでした。根来寺を中心に発展していた多くの堂塔は徹底的に焼き尽くされたと伝えられています。この辺りは、信長と同じように敵対する宗教勢力の武力による解体を目指しているように見えます。

 当時の宗教勢力は、領地を持つだけでなく軍事力も保持する戦国大名のような力を持っていました。ルイス・フロイスは、本能寺の変のあとも日本に滞在し、『日本史』のなかで秀吉についてかなりの紙幅を割いています。この頃の根来衆については、次のような記述があります。


「毎日一本の矢を作ること」が僧侶の最も大事な仕事である、といった状況をフロイスは嘆いています。これにはキリスト教の宣教師としての私見が入っているような気はしますが、当時の宗教勢力の一面を表現していると言えるでしょう。

 紀州の新義真言宗の勢力を武力で攻略した秀吉は、信長とも敵対していた最後の宗教勢力である高野山に使者を派遣して降伏を勧めます。


 織田信長は、謀反を起こした荒木村重の残党をかくまった高野山を武力で包囲しました。しかし、その最中に信長は本能寺で討たれます。しばらく放置されていた高野山に、秀吉は自らへの帰服と武装解除、領地の返上などを求める書状を送りました。


寺院でありながら領地を拡大し、武力を備える当時の宗教勢力に対して、秀吉は本来の「仏事」に励み、政治権力に逆らう姿勢を放棄することを求めました。ここで秀吉は、信長と同じように、古代から中世の社会において確立されていた政治と宗教の関係を背景として、宗教的権威に付与されていた、さまざまな特権を完全に否定します。

 比叡山、高野山、東大寺といった宗教勢力は、しばしば個人支配者を持たないまま国家権力と鋭く対峙し、天皇を超える権威を仏神に認めて、ときには内裏にまで押し入って自らの要求を押し通しました。このため、高野山や比叡山に逃げ込んだ人間に手を出すことは、時の政権を担う存在にとっても困難でした。このタブーを破って比叡山を焼き討ちにしたのが織田信長です。

 秀吉は、高野山に対し比叡山や最近の根来寺の悲劇を引き合いに出して、全面的な降伏を求めます。書状の最後にしたためられた半分脅迫のような文言は、古代から中世にかけて維持されてきた宗教勢力の「アジール権」(世俗の権力の及ばない避難所、聖なる別天地としての権威)が完全に否定されて、新しい政治と宗教の関係が形成されたことを如実に表しています。


 さらに秀吉は、全国規模の「刀狩令」を出して武装集団としての寺社勢力を完全に解体します。刀狩りは民衆の武装解除というよりは、実施的には宗教勢力のあり方を根本的に変えていくことにつながります。また、「太閤検地」を行なって拡大していた寺社領を整理し、領国化していた宗教勢力を再編していきます。この際、秀吉は織豊政権下で武力によって解体された宗教勢力を自らの政治的権威のもとで再編成し、コントロール可能な存在として再建しようとしました。

 この講義は、かつて米国のスタンフォード大学で半年間の日本宗教史の講義を受け持った際に行なった授業をもとにしています。このときには、秀吉によるこの時期の宗教政策の再編成について、”domestication”(ドメスティケーション)という言葉で説明しました。動物の「家畜化」とか野生種の「栽培化」といった意味で使われる言葉です。少し言い過ぎかも知れませんが、信長によって解体・無力化され、秀吉によって再編されて、家康によって完全にコントロールされていく日本の宗教的権威と政治的権威の関係を表す際に、ちょうど良い言葉でした。

 秀吉は、コントロール出来ない宗教勢力を破壊するばかりでなく、それらを自らの政治的権威のもとでコントロール可能な存在として再構築していきます。この辺りが、信長と秀吉の宗教政策の差異の一つとなるでしょう。新たな政治的支配者としての太閤・豊臣秀吉のもとで、織豊政権下で壊滅的に解体された旧来の宗教勢力は、どのように再構築されていったのか。

 次回は、この再構築の過程について、秀吉が京都に建造した大仏と自らを神格化する豊国神社の建立などをもとに辿っていきます。

 この授業は、オンデマンド形式です。このブログの内容を確認したうえで、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。

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