豊臣秀吉から徳川家康へ
豊臣氏の滅亡と大仏建立
前回の講義では、豊臣秀吉による方広寺大仏の建造と自らを大仏及び新しい政治体制の守護神として祀る豊国神社の建立について紹介しました。秀吉は、古代から中世の宗教的権威の象徴であり、当時は破壊されていた奈良・東大寺の大仏を再建するのではなく、自ら創りあげた新しい社会の秩序を象徴する大仏を京都に建造しました。しかし、豊臣氏による政治支配は長くは続かず、徳川氏に支配権は移行していきます。そして、その政治的権威の象徴もまた、新たに創りだされることになるのです。
秀吉の死後、次第に政治力を拡大した徳川家康は、関ヶ原の戦い(1600)でほぼ天下に号令する実権を手中にします。そして、京都や大阪ではなく江戸に幕府を開いて征夷大将軍になりました。しかし、武家の頭領としての豊臣氏の後継者は豊臣秀頼であり、形式的には家康は豊臣氏の家臣の立場でした。
結局、武力衝突により豊臣氏が滅亡することによって、政治的な実権が徳川幕府に移行することになります。この武力衝突の原因になったのが、方広寺の大仏殿と大仏の再建でした。一説によれば、秀頼に方広寺の再建を勧めたのは家康であったとも言われます。
慶長17年に大仏殿は完成しますが、梵鐘の銘に「君臣豊楽・国家安康」とあるのは、「家」と「康」を分断して徳川家を冒涜すものだとされ、この問題が引き金となって豊臣氏と徳川氏の軍事対立は避けられない事態となりました。そして、大阪冬の陣・夏の陣を経て、豊臣氏は滅亡することになります。
豊臣氏の滅亡後、家康は大仏と豊臣政権の守護神として秀吉を祀った豊国廟と豊国神社を徹底的に破壊し、秀吉の墓所は広大な敷地を造成した阿弥陀ヶ峰の山頂から移設され、「豊国大明神」の神号も剥奪されました。豊国神社が再建されるのは、明治時代になってからのことです。方広寺の大仏は、江戸時代にも京都の観光名所として有名でしたが、落雷による火災で焼け落ち、その後は再建されることはありませんでした。
大仏と千僧供養
1690年に来日し、江戸へ参府して第5代将軍・徳川綱吉に謁見しているドイツ人の医師、エンゲルベルト・ケンペルは、その途上で訪れた方広寺の大仏殿について、次のような感想を残しています。
なかなか完成に至らなかった大仏ですが、秀吉の生前には方広寺において継続的に「大仏千僧会」や「大仏千僧供養」と呼ばれる法事が行なわれました。秀吉は、仏教の各宗派から100人ずつの僧侶の派遣を要請し、「千人」規模の僧侶によって、毎月豊臣氏の先祖の供養を行なうように命じます。
このとき、秀吉が僧侶の出仕を求めた「新義八宗」は、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗であり、これは東大寺の大仏が建立された頃の仏教勢力とは大きく異なっています。この千僧供養については、当時の文献にも広く記述が残っています。
このとき、日蓮宗の不受不施派の人々は出仕を拒否し、厳しい弾圧を受けることになります。また、秀吉はキリスト教に対しても晩年は厳しい姿勢をとりますが、これは自らの政治的権威の管轄下に入らない宗教活動への弾圧と考えることもできるでしょう。信長や秀吉を脅かした宗教勢力は、ある意味「飼い慣らされる」ことによって、新しい政治的秩序に組み込まれていくことになるのです。
豊国大明神から東照大権現へ
こうした基本的な宗教政策の枠組みは、徳川幕府の宗教政策にも継承されていくことになります。簡単にまとめると、以下のようになるでしょう。
秀吉が先鞭をつけた宗教勢力の再編成は、江戸時代にはより厳格に制度化されていきます。また、政治的権力を神聖化して絶対化し、宗教勢力を支配下におく政策は、徳川幕府にも継承され、秀吉の神号(豊国大明神)をはく奪した家康は、自らの死後は幕府の権威と日本を鎮護する守護神(東照大権現)として祀られることになりました。さらには、キリスト教や政治的権威の傘下に入らない宗教活動を弾圧する政策を進めるなかで、江戸幕府は寺社の活動を幕府の機構に組み込む宗教政策を制度化していきます。
織田氏や豊臣氏の政権とは違って、徳川幕藩体制は250年ほども続きます。この長い期間に形づくられ、定着していく人々の生活習慣や社会制度が、日本人の宗教的心性に大きく深い影響を及ぼしていくことになるのです。
*次回以降の講義の内容が、講義の全体象を理解するうえで大切になってきます。試験の際にまとめられるように、しっかり理解を深めてください。
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