2021年6月1日火曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第7回

 
徳川幕藩体制の成立と宗教政策

「公儀」の「宗教」としての「仏教」の国教化


  幕藩体制とは、近世日本の社会体制全体のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係からとらえた、歴史研究のための概念です。鎌倉幕府や室町幕府とは違って、徳川幕府は参勤交代などの制度を設けて、主従関係を結んだ各藩の自治権を認める一方で、中央の幕府の政治的権威を強化していきます。将軍の権威を絶対化するこの体制において、大きな役割を果たしたのが幕府の宗教政策でした。



 豊臣秀吉が死去したあと、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに勝利し、政治の実権を手中にした徳川家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に任官され、江戸を本拠とする幕府を開きます。
 豊臣氏との対立を深める一方で、この間に家康は秀吉の宗教政策を換骨奪胎して独自の宗教政策を進めました。まず、秀吉の宗教政策のブレーンであった、木食応其の影響力の強い高野山に法度を出して、高野山の組織を整理します。




 さらに前回の授業で紹介した方広寺大仏殿の再建の時期には、比叡山に天台宗法度を出し、その後も続々と有力社寺の内紛や対立関係に介入し、それらを調停するかたちで法度を出して、各地の宗教勢力への影響力を拡大していきます。

金地院崇伝と寺院諸法度

 こうした家康の宗教政策のブレーンとして、大きな役割を果たしたのは、金地院崇伝(1569-1633)です。「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝は、徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受けて、江戸時代の社会制度の礎を作りました。崇伝は、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度といった250年以上続く江戸幕府を支えた法制度を整備する一方で、キリスト教の禁止のために制定した宗門改め寺請制度をもとに民衆を支配する独自のシステムをつくり上げていきます。その端緒になったのが、各地の社寺に対して個別に出された「寺院諸法度」でした。



 前回確認したように、方広寺の梵鐘問題を契機にして豊臣氏と対立関係を深める一方で、徳川家康は有力社寺の内紛に介入して、幕府の影響下で各宗派の寺院の本末関係を整理し、組織機構を整備して宗教勢力への影響力を高めていきます。こうした政策を発展させて、のちに幕府は各宗派の寺院を重層的な本山・末寺の関係に置くことで各宗派の統制をはかり、すべての寺院を幕府の管轄下において、寺院相互の本末関係を固定化する政策を確立していきます。

➡すべての寺院を各宗派の本末関係に組み込み、無本寺寺院をゼロに👉【本末制度】

 大阪冬の陣・夏の陣を経て豊臣宗家を滅ぼし、禁中並公家諸法度を出して幕府と朝廷との関係性を規定して、ほぼ完全に政治の実権を握った家康は、晩年の禅宗各派や死去する直前の身延山(日蓮宗)への法度まで、極めて広い範囲の宗教勢力に法度を出してそれらを幕府の権威の影響下に置きました。諸宗へ出された諸法度の一部を紹介しておきましょう。


 その基本的な姿勢は、幕府の権威のもとで各宗派の組織機構や寺院の本末関係を整備し、内紛や教説上の対立を抑えることでした。このためには、対立のもとになる新義の異説や勢力争いのもとになる新寺の建立を抑制する必要がありました。



 宗教勢力の紛争に介入し、それらを幕府の権威のもとで調停しながら、崇伝は各宗派の寺院の本末関係僧侶の職制僧侶の座次(上下関係)、僧侶の資格の認定方法認定基準称号の付与僧侶の階級出世の条件といった、細かな制度の制定に介入していきます。また、本来これら有力社寺の僧侶の任免権は朝廷にありましたが、これらの特権をはく奪して宗教勢力を幕府の管轄下に置きます。

 その際、崇伝が重視したのは各宗教勢力を幕府の権威のもとでコントロールすることでした。このため、厳格な上下関係を確定して争いを避け、新義の教説を唱えることや教説上の論争を禁じて無用な軋轢を回避し、新寺や新たな僧侶の任免を抑制して社寺勢力の安定化を図ります。

➡非武装化から無害化へ・・・ドメスティケーション/domestication・・・幕府の機構に組み込んだ宗教勢力の有効利用へ

寺院諸法度から諸宗寺院法度へ

 そして、崇伝が死去した後に幕府は寺社奉行を設置して、全ての宗教勢力に共通する「諸宗寺院法度」を出し、ほぼ完全に寺社勢力を幕府の機構に組み込みました。こうして、ほぼすべての社寺は「公儀」(日本の中世から近世において公権力を意味した語)の「宗教」として、幕藩体制の下部組織に組み入れられていくことになります。



「諸宗寺院法度」という共通法によって、まず「本末制度」「檀家制度」が再編され、キリスト教の禁教政策をもとに確立した「寺請制度」は、より実質的な制度に改正されます。さらには、こうした諸制度をもとにして民間の宗教活動の統制がはかられ、寺社奉行管轄の「触頭」 や「門跡」の制度などが確立されていきました。これらの制度によって、かつて織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の天下統一事業の障壁となった寺社勢力は、ある意味「飼い慣らされて」、幕藩体制の下部組織として再編されていくことになるのです

➡仏教の「国教化」と非「宗教」化・・・葬式仏教

  今日の宗教の定義とは少し異なりますが、江戸時代にはほぼすべての日本人が仏教寺院に所属するかたちになりますので、ある意味では仏教が日本の「国教」になった時代とも言えるかも知れません。しかし、その一方で社寺の運営には幕府や藩政の意向がつねに反映され、宗教活動の自立性は失われて、信仰は形骸化していく側面がありました。

 こうした、近世仏教をネガテイブに捉える歴史観には、近年反論する研究も目立つようになりました。新しい学説や研究の成果を含めて、後半の授業で詳しく紹介することにしましょう。

 次回以降は、まず「諸宗寺院法度」の内容を詳しく紹介したうえで、これらの諸制度と幕藩体制下において再編された社寺勢力、さらには、こうした制度の人々の生活への影響などについて考えていきます。



上に記したのは、これからの講義で確認する徳川幕府の宗教政策の概要をまとめたものです。これからの講義の内容をイメージしながら確認してください。

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