統一宗教法の成立と宗教活動の統制
この時期、家康の宗教政策のブレーンとして大きな役割を果たしたのは、「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院崇伝(1569-1633)でした。崇伝の指導下で、各地の宗教勢力に個別の法度が出されます。これらの「寺院諸法度」は、対象となる社寺勢力によって内容が違いました。しかし、各宗派の寺院の本末関係を固定化し、教説上の議論を禁止して紛争や対立関係を調停することは共通していました。このため、新義の解釈や新寺の建立、分派・分立などは制限されることになります。
こうして、戦国時代には領国化して独自の政治力や軍事力を行使していた宗教勢力は、幕藩体制の下部組織に組み込まれて、250年以上続く徳川幕府の治世を支えていくことになりました。
本山と末寺の関係が固定され、各宗派の教説や活動も制御されるようになると、寺社の運営は安定しますが、その一方で自主的な活動や新しい動きなどは厳しく制限されていくことになります。
日本仏教史研究の大家であり、膨大な通史もまとめている辻善之助は、こうした政策によって仏教勢力は「安定化」し、幕藩体制のもとで社会的役割を与えられた一方で、その活動は「形式化」し、ある意味では”堕落”したという厳しい評価をしました。
古代から中世にかけて、国家を統合する象徴的権威として政治的権威を支えてきた寺社勢力は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康たちによって再建された新たな政治体制のもとで役割を逆転され、完全に政治的権威の下位に位置づけられることになりました。
また、政治的勢力と敵対してほぼ殲滅された宗教勢力は、政治的権威のもとで再建される過程において、戦国時代に保持していた活動の自律性を剥奪され、幕府の統制のもとで一元的に管理されることになります。徳川幕府の公式史書である『徳川実紀』には、辻善之助によれば「仏教の形式化」を本格的させた時期の将軍である、八代将軍・徳川吉宗の言葉として、次のような記述が残されています。
「神仏」への信仰を捨てることはないけれども、とくに何かを信じている訳ではない。古い由緒のある寺社を軽んずることはないけれども、「伊勢・日光」のほかに心から崇敬する社寺はない、という吉宗の言葉は、宗教的権威が「形式化」され、完全に幕府の政治的権威に組み込まれた当時の状況をよく言い表しています。
この「伊勢・日光」への言及については、信長や秀吉と同じように、家康が自己の政治的権威を「東照大権現」として神格化するプロセスを次々回あたりで詳しく説明します。
➡宗教勢力のドメスティケーション/domesticationの結実
こうした、徳川幕府の基本的な宗教政策の理念を体現しているのが、寺社勢力全体に共通する統一法として整備される『諸宗寺院法度』(1655)です。前回の講義でも少し触れましたが、この統一法によって江戸幕府の草創期から進められていた、幕府の権威による宗教勢力の再編成はほぼ完成形に近づきます。
同年に幕府は、全国の神社や神職を統制する『諸社禰宜神主法度』を出して、より広い範囲の宗教活動を監督下におく体制を確立します。これらの社寺への法度は、各地の社寺領の安堵(寺院・神社の領地の確定)にともなって出されたものであり、これによって名実ともに当時の社寺(宗教勢力)は、幕藩体制に組み入れられることになりました。
『諸宗寺院法度』の条目は、次のようなものです。
まず、「諸宗法式を相乱さざるべきこと」とあり、各宗派において寺院を管轄すべきであるとします。そのうえで、「新義を立て、奇怪の法を説くべからざること」として、新説を述べて教義上の対立を生むことを規制しています。
さらに「本末」関係は決して乱してはいけない、無駄に豪勢な寺院を建設してはならない、寺院の土地や領地を売買してはならない、無暗に僧侶を任命して増やしてはならない、といった条目が続きます。こうして、寺院の活動の自律性は極力抑えられ、各地の寺院の活動は制限されることになりました。各地の寺院勢力は地域に固定化されますので、新たに布教して勢力を拡大することは出来なくなりますし、新しい教えの解釈を広めることや新しい活動をはじめることは、基本的に認められませんでした。
「仏教」諸宗派の確立と制度化
さらに、寛永9~10年(1632~3)に『本山末寺帳』が作成されると、幕府の宗教/仏教統制はより完成に近づきます。寛永8年(1631)に幕府は、各宗派の本山に対し末寺帳の作成を命じます。この通達によって作成されるのが『本山末寺帳』であり、幕府の命令で提出された全国の諸宗の本寺と末寺を一覧表にし、末寺の所在地・寺名・寺領石高を列記しました。これによって、一宗派に一つの本山のほかはすべて末寺となり、全国に散在していた寺院には、それぞれ固定化した寺格が与えられることになります。
初期の段階では、天台宗と現在の浄土真宗の本末帳は整備されていませんが、元禄年間には、天台宗及び浄土真宗の本末帳も整備され、天明6~寛政7年(1786~1795)頃には、各宗派の本末帳が完成しました。これによって、10万を超えていたと推定される寺院のほぼすべてが「本山ー末寺」関係に組み入れられ、幕府が宗派の本山に通達すれば、すべての寺院勢力をコントロールできる体制が整うことになります。
こうした法整備や制度の確立と並行して、幕府は行政面でも宗教勢力の管理を確立していきます。寛永12年(1635)に創設された「寺社奉行」は、寺社及び寺社領の行政裁判を担当しました。その管理の範囲は、僧尼、神官、楽人、検校(総検校及び総録検校の設置)、連歌師、陰陽師(暦師)、碁将棋所等の監督など、極めて多岐にわたっています。
神社や寺院ばかりでなく、琵琶法師などの芸能関係者や陰陽師や暦師、囲碁将棋の会所などを含む文化・芸能活動全般が寺社奉行の管轄下におかれます。さらには、江戸の有力寺院を中心に、寺社奉行及び幕府や各藩のつなぎ役として「触頭」を置き(触頭制)、本山-末寺とは別のルートで宗教活動の管理を徹底していきました。
さらに幕府は、黄檗宗、融通念仏宗、普化宗、修験宗といった新しい宗派を成立させまっす。これによって、黄檗宗のような新しく中国から将来された禅の活動や旧来の宗派の枠組みに入らなかった地域の仏教寺院を融通念仏宗のような新宗派に取り込み、虚無僧の活動や日本古来の山岳信仰(修験道)といった、従来の寺社勢力に組み込まれていなかった勢力も幕藩体制下の宗教統制に組み込んでいきます。
こうして、幕藩体制のもとでほぼ完全にコントロールされた仏教各宗派は、新規の布教活動や教理上の議論、対立などを厳しく制限される一方で、学問を奨励されました。しかし、それも決して自由なものではありませんでした。
★次回は、この「寺請制度」と「宗門改め」について詳しく説明します。
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