2021年5月27日木曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第6回


豊臣秀吉から徳川家康へ

豊臣氏の滅亡と大仏建立
 
 前回の講義では、豊臣秀吉による方広寺大仏の建造と自らを大仏及び新しい政治体制の守護神として祀る豊国神社の建立について紹介しました。秀吉は、古代から中世の宗教的権威の象徴であり、当時は破壊されていた奈良・東大寺の大仏を再建するのではなく、自ら創りあげた新しい社会の秩序を象徴する大仏を京都に建造しました。しかし、豊臣氏による政治支配は長くは続かず、徳川氏に支配権は移行していきます。そして、その政治的権威の象徴もまた、新たに創りだされることになるのです。



 秀吉の死後、次第に政治力を拡大した徳川家康は、関ヶ原の戦い(1600)でほぼ天下に号令する実権を手中にします。そして、京都や大阪ではなく江戸に幕府を開いて征夷大将軍になりました。しかし、武家の頭領としての豊臣氏の後継者は豊臣秀頼であり、形式的には家康は豊臣氏の家臣の立場でした。

 結局、武力衝突により豊臣氏が滅亡することによって、政治的な実権が徳川幕府に移行することになります。この武力衝突の原因になったのが、方広寺の大仏殿と大仏の再建でした。一説によれば、秀頼に方広寺の再建を勧めたのは家康であったとも言われます。

 慶長17年に大仏殿は完成しますが、梵鐘の銘に「君臣豊楽・国家安康」とあるのは、「家」と「康」を分断して徳川家を冒涜すものだとされ、この問題が引き金となって豊臣氏と徳川氏の軍事対立は避けられない事態となりました。そして、大阪冬の陣・夏の陣を経て、豊臣氏は滅亡することになります。


 豊臣氏の滅亡後、家康は大仏と豊臣政権の守護神として秀吉を祀った豊国廟豊国神社を徹底的に破壊し、秀吉の墓所は広大な敷地を造成した阿弥陀ヶ峰の山頂から移設され、「豊国大明神」の神号も剥奪されました。豊国神社が再建されるのは、明治時代になってからのことです。方広寺の大仏は、江戸時代にも京都の観光名所として有名でしたが、落雷による火災で焼け落ち、その後は再建されることはありませんでした。

大仏と千僧供養

 1690年に来日し、江戸へ参府して第5代将軍・徳川綱吉に謁見しているドイツ人の医師、エンゲルベルト・ケンペルは、その途上で訪れた方広寺の大仏殿について、次のような感想を残しています。




「手のひら」が「畳三畳が敷ける」ほど巨大な大仏は、豊臣氏の政治的権威を象徴する建造物であり、これはまた、秀吉の政治的権威があらゆる宗教的権威を凌駕するものであることを象徴するモニュメントでした。

 なかなか完成に至らなかった大仏ですが、秀吉の生前には方広寺において継続的に「大仏千僧会」「大仏千僧供養」と呼ばれる法事が行なわれました。秀吉は、仏教の各宗派から100人ずつの僧侶の派遣を要請し、「千人」規模の僧侶によって、毎月豊臣氏の先祖の供養を行なうように命じます。


 このとき、秀吉が僧侶の出仕を求めた「新義八宗」は、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗であり、これは東大寺の大仏が建立された頃の仏教勢力とは大きく異なっています。この千僧供養については、当時の文献にも広く記述が残っています。


 豊臣秀吉は、自らの政治力・経済力によって建立した大仏殿に、織豊政権下で一度は壊滅的な打撃を受けながら、秀吉の政治的権威のもとで再編成された宗教勢力を集めて、豊臣氏の祖先を供養をさせます。これによって秀吉は、古代や中世の宗教的権威と政治的権威の関係を逆転させた、新たな政治と宗教の関係を可視化しようとしたのかも知れません。

 このとき、日蓮宗の不受不施派の人々は出仕を拒否し、厳しい弾圧を受けることになります。また、秀吉はキリスト教に対しても晩年は厳しい姿勢をとりますが、これは自らの政治的権威の管轄下に入らない宗教活動への弾圧と考えることもできるでしょう。信長や秀吉を脅かした宗教勢力は、ある意味「飼い慣らされる」ことによって、新しい政治的秩序に組み込まれていくことになるのです。

豊国大明神から東照大権現へ

 こうした基本的な宗教政策の枠組みは、徳川幕府の宗教政策にも継承されていくことになります。簡単にまとめると、以下のようになるでしょう。


 秀吉が先鞭をつけた宗教勢力の再編成は、江戸時代にはより厳格に制度化されていきます。また、政治的権力を神聖化して絶対化し、宗教勢力を支配下におく政策は、徳川幕府にも継承され、秀吉の神号(豊国大明神)をはく奪した家康は、自らの死後は幕府の権威と日本を鎮護する守護神(東照大権現)として祀られることになりました。さらには、キリスト教や政治的権威の傘下に入らない宗教活動を弾圧する政策を進めるなかで、江戸幕府は寺社の活動を幕府の機構に組み込む宗教政策を制度化していきます。

 織田氏や豊臣氏の政権とは違って、徳川幕藩体制250年ほども続きます。この長い期間に形づくられ、定着していく人々の生活習慣や社会制度が、日本人の宗教的心性に大きく深い影響を及ぼしていくことになるのです。

*次回以降の講義の内容が、講義の全体象を理解するうえで大切になってきます。試験の際にまとめられるように、しっかり理解を深めてください。


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2021年5月19日水曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第5回


豊臣秀吉の宗教政策

宗教勢力の再編成と方広寺大仏


  前回の授業では、本能寺の変のあと信長の家臣団の実権を握り、天下統一の事業を受け継いだ豊臣秀吉の宗教政策を確認しました。小牧・長久手の戦いで敵対した紀州の新義真言宗の勢力を武力で一掃した秀吉は、信長に敵対した宗教勢力のうちでほぼ唯一残存していた高野山を攻略します。

 その際、一方的な破壊行為ではなくて交渉の可能性を提示し、自らの政治的権威に高野山を屈服させたことが、秀吉と信長の宗教政策の大きな相違点であると指摘しました。これによって、古代から中世の日本社会において確立されていた宗教勢力のアジール権は剥奪され、宗教的権威と政治的権威の関係は逆転していくことになります。

 豊臣秀吉は、高野山を調略したあとは矢継ぎ早に、ほぼ壊滅していた宗教勢力を自らの政治的権威の下で再編していきます。

 織田信長によって徹底的に破壊された比叡山は、秀吉によって再建がはじめられ、江戸時代を通じて徳川家との深い関係をもとに再編成されていくことになります。この辺りは、徳川政権の権威の神格化と関わってきますので、もう少し後の授業で詳しく紹介します。

 また、信長の天下統一事業を妨げる最も強力な勢力であった本願寺教団/一向宗に対しては、大阪の石山本願寺の跡地に大阪城を築く一方で、東西本願寺を分断する政策を行ないます。

 顕如と教如の親子の対立から東西に分断された本願寺は、豊臣政権と徳川政権のもとでその分立が加速化され、この分断は幕末まで続きます。明治維新の際も西本願寺は討幕側(長州)、東本願寺は幕府側を支援しました。さらに秀吉は、高野山や興福寺の再編にも着手します。 

豊臣秀吉の宗教政策のブレーンは、高野山の調略に大きな役割を果たし、秀吉の政治的権威を背景にして高野山の再編を進めた木食応其(もくじき おうご/15361608でした。戦乱の時代から織豊政権の確立期において、壊滅的な打撃を受けていた宗教勢力は、全国的な統一政権をほぼ確立した秀吉の政治的権威に「飼い慣らされる」かたちで再編成されていくことになるのです。この再建の過程で秀吉は、古代の宗教的/政治的権威の象徴であり、この時期は松永久秀によって破壊されていた東大寺の大仏殿を再建するのではなく、自らの拠点であった京都にさらに大規模な大仏を建造しようとします。

 現在も京阪電車の七条駅を降りてすぐの場所にかつての方広寺の跡地があります。京都国立博物館の敷地に少しだけ当時の石垣が残っており、当時の伽藍の規模を感じることができます。現在の方広寺は後に再建されたものですので、ほとんど往時を偲ぶことはできませんが、この地域を散策すると大仏の痕跡をそこかしこに見つけることができます。

 秀吉の死後、大仏建立の事業は息子の豊臣秀頼に引き継がれます。建立された大仏殿は、大阪城や東大寺の大仏殿の大きさを凌ぐ壮麗なものであったと伝えられています。


 江戸時代に火災によって焼失しますが、100年以上京都の名所の一つとして訪れる人々を魅了しました。江戸時代に出島から日本を訪れた外国人は、将軍の謁見などのために江戸へ向かう際に京都の大仏に立ち寄り、しばしばその様子を書き記しています。

 この大仏を頂点として、秀吉は仏教の各宗派から僧侶を集めて豊臣家の祖先を供養する法要を行ない、自らの政治的権威のもとで旧来の宗教勢力を再編しようとします。これについては、この政策を受け継ぐ徳川政権の動きと関連づけながら、次回の講義で詳しく説明します。

 さらに自らの死期を悟った秀吉は、死後自らを神(豊国大明神)として祀らせるために、広大な土地(太閤坦)を造成して豊国神社を建立します。 


 死去した後も遺体を安置し、壮大な神社の完成を待って祀られた秀吉は、自ら建造した新しい大仏とこの大仏に象徴される新たな体制を守る守護神として祀られることになりました。つまり、秀吉は自らがつくり出した新しい社会秩序とそれを支える新しい宗教的権威の守護神として、自らを祀ろうとしたのです。このことについては、やはり当時の日本への宣教師の一人が興味深い出来事として記録し、その顛末をローマに報告しています。


 敵対する宗教勢力を徹底的に破壊し、自らの政治的権威を宗教的権威の上に置いた織田信長の政権を継承した秀吉は、天下統一の過程で信長と同じように宗教勢力を一掃しますが、その一方で弱体化した宗教勢力を自らの権威のもとで再編します。そして、再編された宗教的権威を象徴する大仏を建造し、この大仏と新しい社会秩序の守護神として自らを祀ります。

 しかし、その大仏の建造を端緒として豊臣氏は滅亡し、秀吉を守護神として祀る豊国神社は徳川家康によって跡形もなく破壊されます。現在は、その跡地に簡単な説明書きをした立て看板があるのみです。


 次回は、この大仏をめぐる豊臣氏と徳川氏の対立とその後の政権交代、さらには豊臣秀吉から徳川家康へと天下の守護神が移行される過程について考えます。この後に形成される徳川幕府の宗教政策が、現在にまで続く日本人の「宗教的心性」に深く関わってきます。授業の本題はここからですので、しっかり内容を確認してください。

 この授業は、オンデマンド形式です。このブログの内容を確認したうえで、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。


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*前回と今回の授業の内容をさらに学びたい人は、以下の文献などが参考になると思います。図書館等で調べてみてください。




 


2021年5月14日金曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第4回

 豊臣秀吉の宗教政策①

中世の宗教的権威の解体と再構築


 現在、新型コロナウイルスの感染拡大のためにリモート講義が続いていますが、感染状況が落ち着けば、再び対面形式の講義に戻る予定です。学期末の試験も行ないますので、しっかりブログの内容を理解して、グーグルフォームの質問に答えてください。

 前回の講義では、織田信長の極めて個性的な宗教政策の一端を紹介しました。信長は、古代・中世以来の日本の宗教的権威と政治的権威の関係を逆転させて、自らの政治的な権威を宗教的な権威の上に置く政策を実行していきます。その過程でキリスト教や西洋の文化に触れますが、キリスト教に改宗するではなく、自らの政治的権威を神格化しようとします。

 こうした政策の背景には、幾度となく信長の行く手を阻んだ、旧来の寺社勢力や新興の宗教勢力(一向宗や法華宗)との激しい対立がありました。また、古い政治・文化の枠組みが解体し、新たな価値観のもとで社会が再構築された時代に信長が生きたことも大きな理由の一つでしょう。フロイスが記録した信長の御触書については、その信憑性が乏しいとの指摘もあります。しかし、少なくとも信長が先鞭をつけた政治的権威と宗教的権威の関係性の逆転は、豊臣秀吉や徳川家康の宗教政策に継承されていくことになります。

 本能寺の変で倒れた信長の天下統一事業を継承したのは、謀反を起こした明智光秀ではなく、光秀を倒した豊臣秀吉でした。


山崎の戦いで明智光秀を倒し、さらに賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を攻略して信長の家臣団をまとめた秀吉は、小牧・長久手の戦いで新たな政権の基盤を確立しました。この講義は、宗教政策に焦点を置いていますので、豊臣政権確立の詳細な経緯は省きます。

 秀吉は信長の家臣団とともにその政策の多くを継承しますが、宗教政策においては少なくとも初期の段階では、信長と同じように敵対する宗教勢力を徹底的に殲滅しました。


 天正13年(1585)に秀吉は、まだ信長が攻略していなかった宗教勢力の一つであった紀州の真義真言宗の勢力を徹底的に攻撃します。その理由は、小牧・長久手の戦いの際に根来衆や雑賀衆が秀吉の背後を脅かしたからでした。根来寺を中心に発展していた多くの堂塔は徹底的に焼き尽くされたと伝えられています。この辺りは、信長と同じように敵対する宗教勢力の武力による解体を目指しているように見えます。

 当時の宗教勢力は、領地を持つだけでなく軍事力も保持する戦国大名のような力を持っていました。ルイス・フロイスは、本能寺の変のあとも日本に滞在し、『日本史』のなかで秀吉についてかなりの紙幅を割いています。この頃の根来衆については、次のような記述があります。


「毎日一本の矢を作ること」が僧侶の最も大事な仕事である、といった状況をフロイスは嘆いています。これにはキリスト教の宣教師としての私見が入っているような気はしますが、当時の宗教勢力の一面を表現していると言えるでしょう。

 紀州の新義真言宗の勢力を武力で攻略した秀吉は、信長とも敵対していた最後の宗教勢力である高野山に使者を派遣して降伏を勧めます。


 織田信長は、謀反を起こした荒木村重の残党をかくまった高野山を武力で包囲しました。しかし、その最中に信長は本能寺で討たれます。しばらく放置されていた高野山に、秀吉は自らへの帰服と武装解除、領地の返上などを求める書状を送りました。


寺院でありながら領地を拡大し、武力を備える当時の宗教勢力に対して、秀吉は本来の「仏事」に励み、政治権力に逆らう姿勢を放棄することを求めました。ここで秀吉は、信長と同じように、古代から中世の社会において確立されていた政治と宗教の関係を背景として、宗教的権威に付与されていた、さまざまな特権を完全に否定します。

 比叡山、高野山、東大寺といった宗教勢力は、しばしば個人支配者を持たないまま国家権力と鋭く対峙し、天皇を超える権威を仏神に認めて、ときには内裏にまで押し入って自らの要求を押し通しました。このため、高野山や比叡山に逃げ込んだ人間に手を出すことは、時の政権を担う存在にとっても困難でした。このタブーを破って比叡山を焼き討ちにしたのが織田信長です。

 秀吉は、高野山に対し比叡山や最近の根来寺の悲劇を引き合いに出して、全面的な降伏を求めます。書状の最後にしたためられた半分脅迫のような文言は、古代から中世にかけて維持されてきた宗教勢力の「アジール権」(世俗の権力の及ばない避難所、聖なる別天地としての権威)が完全に否定されて、新しい政治と宗教の関係が形成されたことを如実に表しています。


 さらに秀吉は、全国規模の「刀狩令」を出して武装集団としての寺社勢力を完全に解体します。刀狩りは民衆の武装解除というよりは、実施的には宗教勢力のあり方を根本的に変えていくことにつながります。また、「太閤検地」を行なって拡大していた寺社領を整理し、領国化していた宗教勢力を再編していきます。この際、秀吉は織豊政権下で武力によって解体された宗教勢力を自らの政治的権威のもとで再編成し、コントロール可能な存在として再建しようとしました。

 この講義は、かつて米国のスタンフォード大学で半年間の日本宗教史の講義を受け持った際に行なった授業をもとにしています。このときには、秀吉によるこの時期の宗教政策の再編成について、”domestication”(ドメスティケーション)という言葉で説明しました。動物の「家畜化」とか野生種の「栽培化」といった意味で使われる言葉です。少し言い過ぎかも知れませんが、信長によって解体・無力化され、秀吉によって再編されて、家康によって完全にコントロールされていく日本の宗教的権威と政治的権威の関係を表す際に、ちょうど良い言葉でした。

 秀吉は、コントロール出来ない宗教勢力を破壊するばかりでなく、それらを自らの政治的権威のもとでコントロール可能な存在として再構築していきます。この辺りが、信長と秀吉の宗教政策の差異の一つとなるでしょう。新たな政治的支配者としての太閤・豊臣秀吉のもとで、織豊政権下で壊滅的に解体された旧来の宗教勢力は、どのように再構築されていったのか。

 次回は、この再構築の過程について、秀吉が京都に建造した大仏と自らを神格化する豊国神社の建立などをもとに辿っていきます。

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2021年5月6日木曜日

宗教学特殊講義3・日本宗教史研究2 第3回



織田信長の宗教政策②

既存の宗教勢力の破壊と新しい政治的権威の絶対化


 前回の講義では、織田信長の天下統一事業を駆け足で振り返りながら、天下布武の過程において旧来の宗教勢力と新興の宗教勢力の双方が、信長と政治的・軍事的に敵対し、統一事業を妨げる大きな壁となっていたことを確認しました。


 その際、織田信長の宗教政策の特色として以下の3つを挙げました。グーグルフォームの質問に答えてくれた人は、この調子で頑張ってください。


 今回の講義では、三つ目の自己神格化/政治的権威の絶対化について詳しく説明します。


 足利義昭を奉じて京都に入った信長は、周辺の宗教勢力に包囲されるかたちで、一度は撤退を余儀なくされます。その後の天下統一の歩みは、新旧の宗教勢力を徹底的に破壊し、攻略することによって進められます。こうした背景もあってか、信長はこの頃日本に入ってきたキリスト教(イエズス会)の布教活動には好意的でした。とくに信長の信任を得て、畿内の布教活動に従事したのが、ルイス・フロイスです。


永禄6年(1563)、31才の時に来日したフロイスは、その卓越した語学能力を使って日本で活発な布教を行ないます。織田信長と出会うのは最初の入京の時期であり、既存の宗教勢力と対立を深める信長に接近し、何度も直接信長に会っています。天正8年(1580)の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁しました。
 天正11年から、長期にわたる日本での生活経験と知的探求をもとに『日本史』の編纂・執筆に取り組みます。10年以上の執筆期間を経て完成した、全3巻からなる大部の著作は、19世紀に原本が保管されていたマカオの聖堂が焼失したために失われ、原本を書写した写本も一度は散逸しました。これがある程度原型を取り戻したのは、20世紀になってからのことです。
 その後、日本語への翻訳が進み、さまざまな賞を受賞した『完訳 フロイス日本史』(全12巻)などによって、日本の読者にもその全貌がようやく広く知られるようになりました。




 この記録のかなり部分を占めているのが、織田信長に関する記述です。直接対面した経験にもとづくフロイスの信長像は、極めて好意的に描かれており、旧来の宗教勢力に辟易していた信長にキリスト教への改宗を期待していたと思える記述も少なくありません。
 同じ人物伝であっても政治家・戦略家としての信長を描いた『信長公記』などとは違って、フロイスは常にキリスト教の布教を意識しており、当時の宗教事情や信長の宗教意識などの記述に多くの紙幅が割かれています。とくに興味深いのは、天下布武をほぼ成し遂げた信長が、自らの政治的権威の象徴として建設した、安土城の傍らに築いたとされる「摠見寺(そうけんじ)」の記述です。



フロイスによれば、信長は旧来の神仏に変わって彼自身を礼拝の対象として祀らせたとされています。フロイスは、日本の神々や仏教の信仰に懐疑的であった信長がキリスト教へ改宗することを期待します。しかし、信長は全知全能の神といった思想には関心を示す一方で、「自らに優る宇宙の造物主は存在しない」として、信長自身を祀る摠見寺を安土城の傍らに築きました。その全貌は、近年発掘調査などで明らかにされつつあります。


安土城の信長に拝謁するためには、その途上で摠見寺に祀られる信長を拝する必要がありました。


 そのなかで、一段高くなった本堂の2階に信長は、「盆山」と呼ばれる自然石(仏像や神像ではない)を自分自身として祀らせたと言われています。信長と旧来の宗教勢力との対立やキリスト教との関係を考えるとき、とても興味深い史実だと思います。


 ちなみに、フロイス等の宣教師たちが伝えた記録をもとに、17世紀に『日本誌』を著したオランダのアルノルドゥス・モンタヌスは、信長の自己神格化の像を上記のように描きました。これは、日本へは一度も訪れていないモンタヌスの想像図ですので、史実とは大きく違っています。実際の「盆山」は、ただの自然石であったようです。そのほうが、よりウイットに富んでいますね。


 さらに信長は、全国に次のような御触書を出したとされています。


つまり、信長は神仏に参って祈るよりは、安土城へ来て摠見寺の「盆山」を礼拝する方がよほどご利益があるとしたのです。そして、自らを礼拝する者には富と長寿と健康が約束されると宣言しました。実際、信長が切り開いた天下統一の道によって、戦乱に明け暮れていた日本は太平の世へと導かれたことを考えると、フロイスの記録に残された信長の御触書は、あながち荒唐無稽な内容ではないかも知れません。



 こうして、信長はそれまでの宗教的権威と政治的権威の関係を完全に逆転させて、新たな政治と宗教の関係を作り出していきます。しかし、彼の天下統一の事業は志半ばでとん挫し、その後は豊臣秀吉と徳川家康に受け継がれていきます。そして信長の構想した政治と宗教の新たな関係は、かたちを変えながらも秀吉や家康、さらにはその後の世代にも受け継がれて行くことになるのです。


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