2021年7月1日木曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第10回


東照大権現と徳川イデオロギー

政治的権威の神格化と社会制度の絶対化


 前回までの講義では、徳川幕府の宗教政策の形成過程と「仏教/宗門」として定義される宗教勢力が、幕藩体制の下部組織として組み込まれていく過程を確認してきました。

 織田信長・豊臣秀吉の時代に、一度壊滅的な打撃を受けて武装解除され、政治的な自律性を失って、政治的権威のもとで再編成された宗教勢力は、飼い慣らされた野生動物が生命維持に必要となる安全な生活環境や、十分な食料を与えられることと引き換えに行動の自由を奪われるように、政権に従順な組織機構を形成していきます。

 この歴史的な過程には、もちろん金地院崇伝による意図的な寺院の本末関係の確立宗派組織の整備はありましたが、島原の乱のような突発的な事件も大きな影響を及ぼします。

「邪宗門」であるキリスト教/切支丹/耶蘇を取り締まる過程において、正当な「公儀の宗教」として、幕府の政策に従順な宗教勢力は「宗門」に組み込まれて行きます。その一方で、日蓮宗不受不施派などの政権に従順ではない宗教勢力は、キリスト教とともに弾圧の対象となりました。

 こうした宗教政策が「宗門改め」「寺請制度」によって制度化されると、各地の「宗門」に属する寺院の役割は「宗門」と「邪宗門」の判別から、戸籍や社会生活の管理に移っていき、地域の寺院は町役場や市役所、さらには学校のような公的機関の役割を果たすようになっていきました。

 いわゆる「仏教/宗門」が、形式的に「国教」のようになるこの状況は200年以上継続し、この間に庶民の生活様式を変えて、現在にまで残存する日本人の宗教的「心性」に大きな影響を及ぼしていくことになります。


天下人の神格化と東照大権現

 これらの諸制度をイデオロギー的支える役割を果たしたのは、織田信長や豊臣秀吉と同じように、神格化された徳川家康の政治的/宗教的権威でした。

 元和2年(1616)に徳川家康が駿府城で死去すると、次のような遺言に従って、遺体は駿府の久能山に埋葬されます。

「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」(『本光国師日記』)

 家康の葬儀は、浄土宗の大本山である江戸の増上寺で行なわれます。もともと、徳川氏は浄土宗と深いかかわりがあり、家康にも浄土宗の戒名がつけられました。この後、徳川氏の菩提寺として増上寺は、江戸時代を通じて全盛期を迎え、現在の芝公園近辺の広大な寺有地に、120を超える堂宇と100軒を超える学寮が建ち並び、3,000人以上の学僧が常住する学問の中心地・発信地になりました。




 位牌は、松平家の菩提寺である三河の大樹寺に収められ、これ以降代々の徳川将軍の等身大の位牌が大樹寺に収められることになりました。

 遺体は久能山に埋葬され、東照社が創建されます。しかし、遺言に従って一周忌を経て神霊が勧請されて、日光の東照社にも祀られることになりました。このとき、「神柩」を運ぶ壮麗な改葬の行列が仕立てられたとされ、この様子を描く「東照宮縁起絵巻」がいくつもつくられました。




 ただし、この「神柩」に遺体が収められていたかどうかは、定かではありません。しかし、この分霊は「八州の鎮守(日本の守護神)」となる、という家康の遺志によるものだと伝えられています。信長や秀吉のように、家康は自らの政治的権威を神格化する意図を持っていたのではないでしょうか。


天海と日光東照宮

 家康の神格化に大きな役割を果たしたのは、家康の宗教政策を指導したもう一人のブレーンである、南光坊天海(1536~1643)でした。



 家康の晩年に近しい関係を築いた天海は、織田信長によって壊滅的な打撃を受けた比叡山を本山とする、天台宗の再建に尽力します。織田信長によって焼き討ちされた比叡山は、豊臣秀吉の時代に再建をはじめます。この再建を加速させるのは、徳川幕府の基盤を整備し、家康の祀られる日光を整備する三代将軍・徳川家光です。

 もちろん、比叡山の再建自体にも天海は深く関わりますが、江戸の幕府を中心にした新しい政治体制を基盤として、天海は関東を中心にした天台宗の再建を進めます。慶長18年(1613)には、「関東天台宗法度」によって、川越の喜多院を関東天台宗の総本山(東叡山)とします。

 元和3年(1617)に、一周忌を経た家康の分霊を日光へ移すにあたっては、家康を祀る「神号」をめぐって、家康の宗教ブレーンであった、金地院崇伝南海坊天海の二人は激しく対立します。

 豊臣宗家を滅ぼしたあと、家康は秀吉を国の守り神として祀った豊国神社を徹底的に破壊しました。このとき、秀吉に与えられていた神号も剥奪されます。崇伝は、秀吉と同じよう家康を「明神」として祀ることを主張しますが、天海は「権現」号を主張しました。

 大明神として祀られながら滅亡した豊臣宗家を引き合いにだしながら、天海は天台宗の神仏習合思想である山王一実神道にもとづいて「権現」号を採択するように迫ります。結局、二代将軍・徳川秀忠による裁定によって神号は「権現」号に決定し、幕府が朝廷に奏請した神号をもとに、勅許によって「東照大権現」の神号が決定しました。

 その後、家康の分霊が日光に移され、久能山と日光の二つの東照社が分立しました。正保2年(1645)には、朝廷から宮号を賜り「東照宮」となります。

➡神君家康の誕生




寛永寺の創建と東照宮の展開

 家康の死後も2代将軍・秀忠、3代将軍・家光のもとで徳川幕府の宗教政策を担った天海は、寛永2年(1625)に秀忠の寄進を受け、江戸に東叡山の寺号をもつ寺院を創建しました。これが上野の寛永寺です。

 京都の鬼門(北東)を守る比叡山と同じように、江戸城を守る鬼門(現在の上野公園)となる広大な土地に、山号を「東叡山(東の比叡山)」とする大伽藍を建立します。初代貫主となった天海の没後は、2代の公海を経て3代以降は勅許によって皇族から後継者を招くようになり、4代将軍・綱吉以降は増上寺と並ぶ徳川家の菩提寺としても権勢を誇ります。




 3代貫主となった、後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王は、承応3年(1654)に寛永寺貫主となり、日光山主を兼ねるとともに、翌明暦元年(1655)には天台座主も兼ねることになります。以後、幕末に至るまで皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めました。

 寛永寺の貫主は「輪王寺宮/東叡大王」と尊称され、日光・上野・比叡山を統括(三山管領)し、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威を与えられました。東国に皇族を常駐させることによって、朝廷をけん制した側面があったとも考えられています。

 この「輪王寺宮」の権威を中心に、かつて比叡山が京都の朝廷と結びついていたように、幕府と深く関わる宗教的権威のもとで、日本中の門跡寺院が再編成されていきます。

 天海は、比叡山の守り神である山王(大山咋神)釈迦如来(大日如来)及び天照大神の本地とし、家康を鎮護国家の神君として祀ることによって、古代・中世以来の宗教的権威をも幕府の権威のもとに位置づけていきました。


徳川家光と東照宮

 この「神君」家康の権威をより盤石なものとしたのは、徳川幕府の支配体制の礎を築く3代将軍・徳川家光です。




 寛永11年(1634)、家光は「日光社参(将軍が日光に参拝する行事)」し、初代将軍である徳川家康の21年神忌に向けて、「東照大権現」を祀る東照社を整備し直す壮大な計画を打ち出しました。しばしば、伊勢神宮の「式年遷宮(20年に一度の建て替え)」との関連性も指摘されるところです。

 この大規模な日光の改築は「寛永の大造替」と呼ばれ、450万人とも言われる人々が関わる大工事となります。現在の日光の壮麗な伽藍は、基本的にこのとき整備されました。この後、正保2年(1645)には勅許によって、東照社から東照宮に改称することが認められ、徳川家康は、国家を守護する「日本之神(八州の鎮守)」として祀られるようになります。

 多種多様な「東照社縁起」が普及し、各地に「東照宮」が勧請されて、東照宮の分社は全国で500社を超えるまでになったと言われています。さらには、正保4年(1647)より幕末の慶応3年(1867)まで、221年間にわたって朝廷からの「奉幣(天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献すること)」が恒例となり、毎年朝廷から「奉幣使(日光例幣使)」が派遣されるようになります。つまり、伊勢神宮への例幣使と同じように、家康を神として祀る東照宮へ朝廷から使者が送られたのです。

 こうして、信長や秀吉も試みた政治的権威の神格化は、徳川幕藩体制の確立とともにより具体的に制度化したかたちで成立することになりました。

 幕藩体制と東照宮の関係については、次のようにまとめることができるでしょう。


①天海による家康の神格化と東照宮を中心にする門跡寺院の再編成。

 →中世以来の宗教的権威と朝廷の権威を幕藩体制下に組み込む。

②鎮護国家の役割を担った比叡山と朝廷の関係を、東叡山を中心にした体制に組みかえる。

 →「天道」を超越した東照宮/神君の権威のもとで、幕藩体制の秩序を正当化。

③幕藩体制を維持するイデオロギーは、東照神君の権威と東叡山のシステムによって強化される。

 →政治的権威による宗教的権威の再編成。


*次回は、本末関係や寺請制度によって形式化/国教化した「宗門」としての仏教と徳川家の政治的権威を神格化し幕藩体制のもとで、人々の日常的な信仰生活や宗教活動に生じた変化について紹介しましょう。



2021年6月19日土曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第9回

 
宗門改めと寺請制度

「仏教」の国教化と非「宗教」化


徳川幕府の宗教統制の特色

 織田信長や他の戦国大名たちによって壊滅的な打撃を受けた古代・中世以来の宗教的権威及び宗教勢力は、豊臣秀吉によってさらに厳しく攻撃される一方で、秀吉の新しい政治的権威のもとで再編されていきます。

 検地や刀狩りによって武装解除されるとともに経済的基盤を完全に管理された宗教勢力は、まるでコントロールできない野生の動物が飼い慣らされて家畜化するように、主体的な活動の自由と自治権を放棄し、政治的権威に服従するかたちで再生することを許されました。

 秀吉が京都に築いた大仏は、この新しい政治と宗教の関係を象徴するものでした。こうした秀吉の宗教政策の原型は、総見寺に自らを祀らせた信長の宗教政策に見ることができます。

 徳川幕府の宗教統制は、信長・秀吉以来の新たな政治と宗教の関係をより厳格な法制度によって強化し、制度化するものでした。本山ー末寺の関係を再構築し、すべての寺院と宗教・文化活動を寺社奉行の管轄下に置くことで、江戸幕府はかつてはコントロール不能であった宗教勢力を幕藩体制に組み入れ、幕府の支配体制を支える下部組織に位置づけていきます。




 こうして”再編”された「仏教」勢力は、幕府の管轄下でほぼ日本全域をカバーし、ある意味ではこの時期にはじめて、「仏教」は日本の「国教」といえるような状況になりました。しかし、その一方で近世の仏教は「形式化」し、堕落したと揶揄されることにもなります。

*ここで「仏教」に「 」を付けているのは、江戸時代の「仏教」は神社や山岳信仰のような民俗信仰を包含する存在であり、現在のような日本仏教の諸宗派の総称としての仏教とはかなり異質な概念であるからです。しばしば、「宗門」と表記される「公儀の宗教」は、現在の仏教よりはかなり広い概念です。ちなみに、現在の「仏教」概念は、明治以降の日本において形成された、近代的「宗教」概念とともに成立します。

 こうした、宗教勢力の幕藩体制の下部組織への組み込みと社寺勢力の一元的管理を加速化させたのは、切支丹/邪宗門の禁制とともに成立する「寺請制度」「宗門改め」でした。


徳川幕府の禁教令

 織田信長は、寺社勢力との対立もあってキリスト教には寛容な政策を行ないました。しかし豊臣秀吉は、晩年になって、スペイン・ポルトガルへの不信感をつのらせ、天正15年(1587)にいわゆる「バテレン追放令(吉利支丹伴天連追放令)」を出して、国策と連動しながら海外での布教活動を続けていた、カトリックの伝道修道会(イエズス会やフランシスコ会)の活動を中心に、キリスト教を禁教として弾圧を加えました。

 自らの政治的権威のもとで、宗教勢力の非武装化完全服従を条件とした再編成を進めていた秀吉にとって、政治的コントロールの及ばないバチカンの指示に従うキリスト教勢力は邪魔な存在になってきます。また、しばしば指摘されているように、「一向宗」のような政治的な敵対勢力を生みだす元凶になるのではないか、と危惧したことも否定できないでしょう。

 徳川幕府の宗教統制にとっても、キリスト教は①政治的コントロールが及ばない存在であること、及び②敵対的な宗教勢力の温床になる可能性、という双方の理由から規制すべき対象と考えられることになります。

*ちなみに、これらの①・②は、織田信長の天下統一事業を妨げた、2種類の宗教勢力の分類にちょうど対応しています。

 慶長18年(1613)には、金地院崇伝「伴天連追放之文」を起草し、徳川幕府も本格的にキリスト教の規制に踏み出します。崇伝が一晩で書き上げたとされるキリスト教の排除令には、日本は神/仏に護られた国であることが強調されています。




 幕府直轄地へのキリスト教禁止令有馬晴信のような、いわゆる「切支丹大名(キリスト教に改宗した地域の支配者)」への弾圧からはじまる政策は、全国的なキリスト教の弾圧につながり、寛永10年(1633)の「第1次鎖国令」に至って、諸外国との交流の規制にまで発展することになりました。


島原の乱(寛永14年~15年)

 こうしたなかで、幕府のキリスト教・禁教政策を加速化させる大事件が起こります。




 代表的なキリシタン大名であり、幕府によって処刑された有馬晴信の領地であった島原の農民・キリスト教徒たちが蜂起し、有馬氏の古城であった「原城」に立てこもって内乱を起こす、という事件が起きます。

 「島原の乱」の名で知られるこの一揆では、3万人を超える農民が有馬氏の転封のあとで新たな領主となった松倉重政・勝家に反乱を起こします。その理由には、新たな築城にともななう重税などもあったようですが、基本的にキリスト教の信仰にもとづく宗教的な反乱の傾向が強い一揆でした。

 天草四郎を総大将とする籠城軍は、幕府から派遣された討伐軍と交戦し、当初の討伐軍の総大将であった板倉重昌が戦死するほど奮戦しますが、結局は松平信綱の率いる討伐軍に鎮圧されました。しかし、江戸時代を通じて最大の内乱になったこの事件を契機として、幕府のキリスト教の禁止鎖国政策は厳しさを増していきます。



 籠城した反乱軍は徹底的に殲滅され、内通者の一人を除いて全員死亡するという凄惨な結果になりました。かつて原城の跡地を訪れたとき、目前に広がるのどかな美しい景色と凄惨な戦闘の歴史とのギャップを強く感じたことを覚えています。

 この反乱を鎮圧するために、幕府は人的にも経済的にも極めて大きな損失を被りました。また、宗教的な反乱を鎮圧することの難しさをあらためて痛感します。島原の乱のあと、幕府は鎖国政策をより厳格化し、長崎・出島を通じたオランダ中国との交易以外は認めない、いわゆる鎖国政策をとるようになります。


寺請制度と宗門改め

 こうした状況のもとで、キリスト教の禁止を徹底するために確立された政策が「寺請制度」です。

 寺請制度は、幕藩体制下において民衆を必ずどこかの「仏教」宗派に所属させ、寺院(檀那寺)の檀家(檀徒)となることを強制した制度(檀家制度)のことです。ここでの「仏教」は、先に説明したように、現在の仏教よりはもう少し広い概念です。だから、地域の寺院の檀家になるということは、現在においてどこかの宗教の信者になることと同じではありませんでした。

 このため、所属する寺院の宗派の開祖基本的な教説などについて、檀家(檀徒)でありながらまったく知識がない、といった状況が生じます。現在でも、日本人の多くが仏教徒でありながら、所属する寺院の宗派の教えや開祖について、上手く説明できないケースが多いのはこのためです。所属する寺院の宗派の名前(〇〇宗)は言えても、開祖の名前さえ知らないという人は、決して少なくないのではないでしょうか。

 島原の乱以後、幕府はすでに進めていたキリスト教の禁止をより厳格化していきます。そして、キリスト教徒を摘発するために、民衆の信仰を確認する調査が「宗門改め」でした。宗門改めによって、檀家として寺院に所属することが確認された人は、本人がその寺の檀家である―つまり、キリスト教徒ではない―という証明書を発行してもらいました。

 これが「寺請証文」です。

 現在の戸籍と同じように、地域の寺院に檀家の出生地生年月日を届けさせ、それにもとづいて、婚姻・旅行・就職・移住などの際に、邪宗門ではないという証明書(寺請証文)が発行されました。ちょうど、現在の住民票戸籍抄本のような感じでしょうか。

 これによって、地域の寺院は現在の市役所町役場のような地域社会の中心となる施設になり、「仏教」は幕藩体制を支える下部組織に組み込まれていくことになります。




 まず、慶長18年(1613)頃から、キリスト教徒の多い地域や一部の社会階層で寺請制が実施されます。本来はキリスト教の排除と監視のために整備された制度でしたが、時代が下るにつれて、僧侶を通じた民衆の管理に重きが置かれるようになります。

 圭室文雄『江戸幕府の宗教統制』 (日本人の行動と思想〈16〉) によれば、寛永12年(1635)頃には、全国的に寺院過去帳に姓を持たない庶民の記載が増え、かなり寺請証文(寺檀契約状)の発行が増えています。つまり、この時期にはすでに、寺請制度の役割は、キリスト教の取り締まりよりは、むしろ寺院を通じた民衆の統制・管理のほうへ移っているのです。



 さらに、寺請証文のもとになる「宗旨人別帳(宗門人別帳)」は、現在の戸籍に近い記録として、各地の寺院によって管理されることになります。



「宗旨人別帳(宗門人別帳)」は、元来は「宗門改め」の際に作成した帳簿であり、この帳簿に記載されていることが、キリシタン(あるいは他の邪宗門の信者)ではないことを証明し、身元を保証する身分保証になりました。「宗門改帳」・「宗門改人別帳」・「宗門人別帳」などと表記されました。

 キリシタンの摘発をおもな任務として、寛永17年(1640)に設けられたキリシタン奉行は、宝永年間(1704~11)以降に「宗門改役」と改称され、「宗旨人別帳(宗門人別帳)」は、邪宗門の取り締まりよりは主に民衆の戸籍管理の役割を果たすようになります。しばしば、「踏絵」などによって強調される宗門改めのイメージは、あまり当時の実状にはそぐわないようです。

 戸籍に類する制度として「宗旨人別帳(宗門人別帳)」が機能するようになると、新生児は出生を地域の寺院に届出し、それによって身分保障を得ることになります。こうして、日本中の民衆は、ほぼ全員何らかのかたちで寺院に所属することになり、当時の日本において仏教は、形式的には「国教」になった、と言っても良い状況になりました。「徳川禁令考」に残る当時の通達によれば、人別帳の役割は、ほぼ民衆の生活の管理にあることがよく分かります。




 これによって、寺院に所属する檀家と菩提寺の関係は、葬儀や法要などに限定された極めて形式的なものとなりました。このことが、近世の仏教がしばしば「葬式仏教」などと揶揄される原因になります。

 しかし、「邪宗門」(公儀の宗教である「宗門」に属さない非公式の宗門)として排除されたのは、決してキリスト教だけではありませんでした。




 たとえば、豊臣秀吉の千僧供養の呼び出しに応じず、厳しく弾圧された「日蓮宗不受不施派」は、切支丹と同じく「邪宗門」として禁制扱いになります。

 文禄4年(1595)に、 日奥(1565~1630)が秀吉の千僧供養への出仕を拒否したあと、政治的権威への服従を拒絶するポリシーを貫いて、不受不施派は、慶長4年(1599)に家康の招聘も拒否します。

 寛永7年(1630)には、 日蓮宗他派との論争を行なったことを理由に、日奥は対馬へ配流されます。さらには、寛文9年(1669)に不受不施派による寺請は禁止になり、キリシタンと同じように幕府から邪宗門として弾圧されることになりました。

 このほかにも、薩摩藩の「かくれ念仏」や他所の「秘事法門」など、一向宗(真宗)系の活動も「邪宗門」としてしばしば弾圧され、各地で「地下信仰」が発達します。公認の「宗門」と非公認の「邪宗門」という区分は、明治以降の日本の宗教政策にも形式的に継承されていきました。

 次回は、これらの宗教統制を可能にした要件の一つである、「神君/徳川家康」政治的権威の神格化について、詳しく紹介したいと思います。

  理解を深めたい人は、このブログの内容を確認したうえで下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。

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2021年6月11日金曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第8回


幕藩体制下の宗教統制

統一的宗教法の成立と宗教勢力の一元的管理


 前回の講義では、徳川幕府の成立期の宗教政策を概観しました。豊臣氏との対立を深める一方で、徳川家康は各社寺勢力の内紛や対立関係に介入し、トラブルを調停するかたちで宗教勢力への影響力を拡大していきます。豊臣氏を滅ぼしたあとは秀吉の政治的/宗教的権威の影響力を削減し、寺院諸法度を通して各社寺の管理体制を強化していきます。

統一宗教法の成立と宗教活動の統制

 この時期、家康の宗教政策のブレーンとして大きな役割を果たしたのは、「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院崇伝(1569-1633)でした。崇伝の指導下で、各地の宗教勢力に個別の法度が出されます。これらの「寺院諸法度」は、対象となる社寺勢力によって内容が違いました。しかし、各宗派の寺院の本末関係を固定化し、教説上の議論を禁止して紛争や対立関係を調停することは共通していました。このため、新義の解釈新寺の建立分派・分立などは制限されることになります。

 こうして、戦国時代には領国化して独自の政治力や軍事力を行使していた宗教勢力は、幕藩体制の下部組織に組み込まれて、250年以上続く徳川幕府の治世を支えていくことになりました。



 本山と末寺の関係が固定され、各宗派の教説や活動も制御されるようになると、寺社の運営は安定しますが、その一方で自主的な活動新しい動きなどは厳しく制限されていくことになります。

 日本仏教史研究の大家であり、膨大な通史もまとめている辻善之助は、こうした政策によって仏教勢力は「安定化」し、幕藩体制のもとで社会的役割を与えられた一方で、その活動は「形式化」し、ある意味では”堕落”したという厳しい評価をしました。

 古代から中世にかけて、国家を統合する象徴的権威として政治的権威を支えてきた寺社勢力は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康たちによって再建された新たな政治体制のもとで役割を逆転され、完全に政治的権威の下位に位置づけられることになりました。

 また、政治的勢力と敵対してほぼ殲滅された宗教勢力は、政治的権威のもとで再建される過程において、戦国時代に保持していた活動の自律性を剥奪され、幕府の統制のもとで一元的に管理されることになります。徳川幕府の公式史書である『徳川実紀』には、辻善之助によれば「仏教の形式化」を本格的させた時期の将軍である、八代将軍・徳川吉宗の言葉として、次のような記述が残されています。


「神仏」への信仰を捨てることはないけれども、とくに何かを信じている訳ではない。古い由緒のある寺社を軽んずることはないけれども、「伊勢・日光」のほかに
心から崇敬する社寺はない、という吉宗の言葉は、宗教的権威が「形式化」され、完全に幕府の政治的権威に組み込まれた当時の状況をよく言い表しています。

 この「伊勢・日光」への言及については、信長や秀吉と同じように、家康が自己の政治的権威を「東照大権現」として神格化するプロセスを次々回あたりで詳しく説明します。

➡宗教勢力のドメスティケーション/domesticationの結実

 こうした、徳川幕府の基本的な宗教政策の理念を体現しているのが、寺社勢力全体に共通する統一法として整備される『諸宗寺院法度』(1655)です。前回の講義でも少し触れましたが、この統一法によって江戸幕府の草創期から進められていた、幕府の権威による宗教勢力の再編成はほぼ完成形に近づきます。




 この統一法のもとで、とくに厳格に規定されたのは諸宗派の統制本山-末寺関係の確立でした。日本中のすべての仏教諸派を幕府の管理下に置き、全ての地方寺院をどこかの宗派に所属させ、各寺院の本-末関係(上下関係)を厳格に規定すれば、すべての寺院の活動を幕府は把握し、コントロールすることができます。

 同年に幕府は、全国の神社や神職を統制する『諸社禰宜神主法度』を出して、より広い範囲の宗教活動を監督下におく体制を確立します。これらの社寺への法度は、各地の社寺領の安堵(寺院・神社の領地の確定)にともなって出されたものであり、これによって名実ともに当時の社寺(宗教勢力)は、幕藩体制に組み入れられることになりました。

 『諸宗寺院法度』の条目は、次のようなものです。



 まず、「諸宗法式を相乱さざるべきこと」とあり、各宗派において寺院を管轄すべきであるとします。そのうえで、「新義を立て、奇怪の法を説くべからざること」として、新説を述べて教義上の対立を生むことを規制しています。

 さらに「本末」関係は決して乱してはいけない、無駄に豪勢な寺院を建設してはならない、寺院の土地や領地を売買してはならない、無暗に僧侶を任命して増やしてはならない、といった条目が続きます。こうして、寺院の活動の自律性は極力抑えられ、各地の寺院の活動は制限されることになりました。各地の寺院勢力は地域に固定化されますので、新たに布教して勢力を拡大することは出来なくなりますし、新しい教えの解釈を広めることや新しい活動をはじめることは、基本的に認められませんでした。


「仏教」諸宗派の確立と制度化

 さらに、寛永9~10年(1632~3)に『本山末寺帳』が作成されると、幕府の宗教/仏教統制はより完成に近づきます。寛永8年(1631)に幕府は、各宗派の本山に対し末寺帳の作成を命じます。この通達によって作成されるのが『本山末寺帳』であり、幕府の命令で提出された全国の諸宗の本寺と末寺を一覧表にし、末寺の所在地・寺名・寺領石高を列記しました。これによって、一宗派に一つの本山のほかはすべて末寺となり、全国に散在していた寺院には、それぞれ固定化した寺格が与えられることになります。




 初期の段階では、天台宗と現在の浄土真宗の本末帳は整備されていませんが、元禄年間には、天台宗及び浄土真宗の本末帳も整備され、天明6~寛政7年(1786~1795)頃には、各宗派の本末帳が完成しました。これによって、10万を超えていたと推定される寺院のほぼすべてが「本山ー末寺」関係に組み入れられ、幕府が宗派の本山に通達すれば、すべての寺院勢力をコントロールできる体制が整うことになります。


 こうした法整備や制度の確立と並行して、幕府は行政面でも宗教勢力の管理を確立していきます。寛永12年(1635)に創設された「寺社奉行」は、寺社及び寺社領の行政裁判を担当しました。その管理の範囲は、僧尼、神官、楽人、検校(総検校及び総録検校の設置)、連歌師、陰陽師(暦師)、碁将棋所等の監督など、極めて多岐にわたっています。



 神社や寺院ばかりでなく、琵琶法師などの芸能関係者や陰陽師暦師囲碁将棋の会所などを含む文化・芸能活動全般が寺社奉行の管轄下におかれます。さらには、江戸の有力寺院を中心に、寺社奉行及び幕府や各藩のつなぎ役として「触頭」を置き(触頭制)、本山-末寺とは別のルートで宗教活動の管理を徹底していきました。

 さらに幕府は、黄檗宗、融通念仏宗、普化宗、修験宗といった新しい宗派を成立させまっす。これによって、黄檗宗のような新しく中国から将来された禅の活動や旧来の宗派の枠組みに入らなかった地域の仏教寺院を融通念仏宗のような新宗派に取り込み、虚無僧の活動や日本古来の山岳信仰(修験道)といった、従来の寺社勢力に組み込まれていなかった勢力も幕藩体制下の宗教統制に組み込んでいきます。






 こうして、幕藩体制のもとでほぼ完全にコントロールされた仏教各宗派は、新規の布教活動や教理上の議論、対立などを厳しく制限される一方で、学問を奨励されました。しかし、それも決して自由なものではありませんでした。



 こうして確立された、江戸幕府の宗教統制の特色をまとめると次のようになります。


 幕府の管理下に置かれた寺社勢力は、「寺請制度」と「宗門改め」の制度が確立されることによって、より具体的なかたちで地域社会に組み込まれ、幕藩体制の下部組織の一つとして、250年以上続く幕府の支配体制を支えていくことになりました。

★次回は、この「寺請制度」と「宗門改め」について詳しく説明します。

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2021年6月1日火曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第7回

 
徳川幕藩体制の成立と宗教政策

「公儀」の「宗教」としての「仏教」の国教化


  幕藩体制とは、近世日本の社会体制全体のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係からとらえた、歴史研究のための概念です。鎌倉幕府や室町幕府とは違って、徳川幕府は参勤交代などの制度を設けて、主従関係を結んだ各藩の自治権を認める一方で、中央の幕府の政治的権威を強化していきます。将軍の権威を絶対化するこの体制において、大きな役割を果たしたのが幕府の宗教政策でした。



 豊臣秀吉が死去したあと、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに勝利し、政治の実権を手中にした徳川家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に任官され、江戸を本拠とする幕府を開きます。
 豊臣氏との対立を深める一方で、この間に家康は秀吉の宗教政策を換骨奪胎して独自の宗教政策を進めました。まず、秀吉の宗教政策のブレーンであった、木食応其の影響力の強い高野山に法度を出して、高野山の組織を整理します。




 さらに前回の授業で紹介した方広寺大仏殿の再建の時期には、比叡山に天台宗法度を出し、その後も続々と有力社寺の内紛や対立関係に介入し、それらを調停するかたちで法度を出して、各地の宗教勢力への影響力を拡大していきます。

金地院崇伝と寺院諸法度

 こうした家康の宗教政策のブレーンとして、大きな役割を果たしたのは、金地院崇伝(1569-1633)です。「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝は、徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受けて、江戸時代の社会制度の礎を作りました。崇伝は、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度といった250年以上続く江戸幕府を支えた法制度を整備する一方で、キリスト教の禁止のために制定した宗門改め寺請制度をもとに民衆を支配する独自のシステムをつくり上げていきます。その端緒になったのが、各地の社寺に対して個別に出された「寺院諸法度」でした。



 前回確認したように、方広寺の梵鐘問題を契機にして豊臣氏と対立関係を深める一方で、徳川家康は有力社寺の内紛に介入して、幕府の影響下で各宗派の寺院の本末関係を整理し、組織機構を整備して宗教勢力への影響力を高めていきます。こうした政策を発展させて、のちに幕府は各宗派の寺院を重層的な本山・末寺の関係に置くことで各宗派の統制をはかり、すべての寺院を幕府の管轄下において、寺院相互の本末関係を固定化する政策を確立していきます。

➡すべての寺院を各宗派の本末関係に組み込み、無本寺寺院をゼロに👉【本末制度】

 大阪冬の陣・夏の陣を経て豊臣宗家を滅ぼし、禁中並公家諸法度を出して幕府と朝廷との関係性を規定して、ほぼ完全に政治の実権を握った家康は、晩年の禅宗各派や死去する直前の身延山(日蓮宗)への法度まで、極めて広い範囲の宗教勢力に法度を出してそれらを幕府の権威の影響下に置きました。諸宗へ出された諸法度の一部を紹介しておきましょう。


 その基本的な姿勢は、幕府の権威のもとで各宗派の組織機構や寺院の本末関係を整備し、内紛や教説上の対立を抑えることでした。このためには、対立のもとになる新義の異説や勢力争いのもとになる新寺の建立を抑制する必要がありました。



 宗教勢力の紛争に介入し、それらを幕府の権威のもとで調停しながら、崇伝は各宗派の寺院の本末関係僧侶の職制僧侶の座次(上下関係)、僧侶の資格の認定方法認定基準称号の付与僧侶の階級出世の条件といった、細かな制度の制定に介入していきます。また、本来これら有力社寺の僧侶の任免権は朝廷にありましたが、これらの特権をはく奪して宗教勢力を幕府の管轄下に置きます。

 その際、崇伝が重視したのは各宗教勢力を幕府の権威のもとでコントロールすることでした。このため、厳格な上下関係を確定して争いを避け、新義の教説を唱えることや教説上の論争を禁じて無用な軋轢を回避し、新寺や新たな僧侶の任免を抑制して社寺勢力の安定化を図ります。

➡非武装化から無害化へ・・・ドメスティケーション/domestication・・・幕府の機構に組み込んだ宗教勢力の有効利用へ

寺院諸法度から諸宗寺院法度へ

 そして、崇伝が死去した後に幕府は寺社奉行を設置して、全ての宗教勢力に共通する「諸宗寺院法度」を出し、ほぼ完全に寺社勢力を幕府の機構に組み込みました。こうして、ほぼすべての社寺は「公儀」(日本の中世から近世において公権力を意味した語)の「宗教」として、幕藩体制の下部組織に組み入れられていくことになります。



「諸宗寺院法度」という共通法によって、まず「本末制度」「檀家制度」が再編され、キリスト教の禁教政策をもとに確立した「寺請制度」は、より実質的な制度に改正されます。さらには、こうした諸制度をもとにして民間の宗教活動の統制がはかられ、寺社奉行管轄の「触頭」 や「門跡」の制度などが確立されていきました。これらの制度によって、かつて織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の天下統一事業の障壁となった寺社勢力は、ある意味「飼い慣らされて」、幕藩体制の下部組織として再編されていくことになるのです

➡仏教の「国教化」と非「宗教」化・・・葬式仏教

  今日の宗教の定義とは少し異なりますが、江戸時代にはほぼすべての日本人が仏教寺院に所属するかたちになりますので、ある意味では仏教が日本の「国教」になった時代とも言えるかも知れません。しかし、その一方で社寺の運営には幕府や藩政の意向がつねに反映され、宗教活動の自立性は失われて、信仰は形骸化していく側面がありました。

 こうした、近世仏教をネガテイブに捉える歴史観には、近年反論する研究も目立つようになりました。新しい学説や研究の成果を含めて、後半の授業で詳しく紹介することにしましょう。

 次回以降は、まず「諸宗寺院法度」の内容を詳しく紹介したうえで、これらの諸制度と幕藩体制下において再編された社寺勢力、さらには、こうした制度の人々の生活への影響などについて考えていきます。



上に記したのは、これからの講義で確認する徳川幕府の宗教政策の概要をまとめたものです。これからの講義の内容をイメージしながら確認してください。

 理解を深めたい人は、このブログの内容を確認したうえで下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。

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2021年5月27日木曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第6回


豊臣秀吉から徳川家康へ

豊臣氏の滅亡と大仏建立
 
 前回の講義では、豊臣秀吉による方広寺大仏の建造と自らを大仏及び新しい政治体制の守護神として祀る豊国神社の建立について紹介しました。秀吉は、古代から中世の宗教的権威の象徴であり、当時は破壊されていた奈良・東大寺の大仏を再建するのではなく、自ら創りあげた新しい社会の秩序を象徴する大仏を京都に建造しました。しかし、豊臣氏による政治支配は長くは続かず、徳川氏に支配権は移行していきます。そして、その政治的権威の象徴もまた、新たに創りだされることになるのです。



 秀吉の死後、次第に政治力を拡大した徳川家康は、関ヶ原の戦い(1600)でほぼ天下に号令する実権を手中にします。そして、京都や大阪ではなく江戸に幕府を開いて征夷大将軍になりました。しかし、武家の頭領としての豊臣氏の後継者は豊臣秀頼であり、形式的には家康は豊臣氏の家臣の立場でした。

 結局、武力衝突により豊臣氏が滅亡することによって、政治的な実権が徳川幕府に移行することになります。この武力衝突の原因になったのが、方広寺の大仏殿と大仏の再建でした。一説によれば、秀頼に方広寺の再建を勧めたのは家康であったとも言われます。

 慶長17年に大仏殿は完成しますが、梵鐘の銘に「君臣豊楽・国家安康」とあるのは、「家」と「康」を分断して徳川家を冒涜すものだとされ、この問題が引き金となって豊臣氏と徳川氏の軍事対立は避けられない事態となりました。そして、大阪冬の陣・夏の陣を経て、豊臣氏は滅亡することになります。


 豊臣氏の滅亡後、家康は大仏と豊臣政権の守護神として秀吉を祀った豊国廟豊国神社を徹底的に破壊し、秀吉の墓所は広大な敷地を造成した阿弥陀ヶ峰の山頂から移設され、「豊国大明神」の神号も剥奪されました。豊国神社が再建されるのは、明治時代になってからのことです。方広寺の大仏は、江戸時代にも京都の観光名所として有名でしたが、落雷による火災で焼け落ち、その後は再建されることはありませんでした。

大仏と千僧供養

 1690年に来日し、江戸へ参府して第5代将軍・徳川綱吉に謁見しているドイツ人の医師、エンゲルベルト・ケンペルは、その途上で訪れた方広寺の大仏殿について、次のような感想を残しています。




「手のひら」が「畳三畳が敷ける」ほど巨大な大仏は、豊臣氏の政治的権威を象徴する建造物であり、これはまた、秀吉の政治的権威があらゆる宗教的権威を凌駕するものであることを象徴するモニュメントでした。

 なかなか完成に至らなかった大仏ですが、秀吉の生前には方広寺において継続的に「大仏千僧会」「大仏千僧供養」と呼ばれる法事が行なわれました。秀吉は、仏教の各宗派から100人ずつの僧侶の派遣を要請し、「千人」規模の僧侶によって、毎月豊臣氏の先祖の供養を行なうように命じます。


 このとき、秀吉が僧侶の出仕を求めた「新義八宗」は、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗であり、これは東大寺の大仏が建立された頃の仏教勢力とは大きく異なっています。この千僧供養については、当時の文献にも広く記述が残っています。


 豊臣秀吉は、自らの政治力・経済力によって建立した大仏殿に、織豊政権下で一度は壊滅的な打撃を受けながら、秀吉の政治的権威のもとで再編成された宗教勢力を集めて、豊臣氏の祖先を供養をさせます。これによって秀吉は、古代や中世の宗教的権威と政治的権威の関係を逆転させた、新たな政治と宗教の関係を可視化しようとしたのかも知れません。

 このとき、日蓮宗の不受不施派の人々は出仕を拒否し、厳しい弾圧を受けることになります。また、秀吉はキリスト教に対しても晩年は厳しい姿勢をとりますが、これは自らの政治的権威の管轄下に入らない宗教活動への弾圧と考えることもできるでしょう。信長や秀吉を脅かした宗教勢力は、ある意味「飼い慣らされる」ことによって、新しい政治的秩序に組み込まれていくことになるのです。

豊国大明神から東照大権現へ

 こうした基本的な宗教政策の枠組みは、徳川幕府の宗教政策にも継承されていくことになります。簡単にまとめると、以下のようになるでしょう。


 秀吉が先鞭をつけた宗教勢力の再編成は、江戸時代にはより厳格に制度化されていきます。また、政治的権力を神聖化して絶対化し、宗教勢力を支配下におく政策は、徳川幕府にも継承され、秀吉の神号(豊国大明神)をはく奪した家康は、自らの死後は幕府の権威と日本を鎮護する守護神(東照大権現)として祀られることになりました。さらには、キリスト教や政治的権威の傘下に入らない宗教活動を弾圧する政策を進めるなかで、江戸幕府は寺社の活動を幕府の機構に組み込む宗教政策を制度化していきます。

 織田氏や豊臣氏の政権とは違って、徳川幕藩体制250年ほども続きます。この長い期間に形づくられ、定着していく人々の生活習慣や社会制度が、日本人の宗教的心性に大きく深い影響を及ぼしていくことになるのです。

*次回以降の講義の内容が、講義の全体象を理解するうえで大切になってきます。試験の際にまとめられるように、しっかり理解を深めてください。


 この授業は、オンデマンド形式です。このブログの内容を確認したうえで、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。

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2021年5月19日水曜日

宗教学特殊講義3/日本宗教史研究2 第5回


豊臣秀吉の宗教政策

宗教勢力の再編成と方広寺大仏


  前回の授業では、本能寺の変のあと信長の家臣団の実権を握り、天下統一の事業を受け継いだ豊臣秀吉の宗教政策を確認しました。小牧・長久手の戦いで敵対した紀州の新義真言宗の勢力を武力で一掃した秀吉は、信長に敵対した宗教勢力のうちでほぼ唯一残存していた高野山を攻略します。

 その際、一方的な破壊行為ではなくて交渉の可能性を提示し、自らの政治的権威に高野山を屈服させたことが、秀吉と信長の宗教政策の大きな相違点であると指摘しました。これによって、古代から中世の日本社会において確立されていた宗教勢力のアジール権は剥奪され、宗教的権威と政治的権威の関係は逆転していくことになります。

 豊臣秀吉は、高野山を調略したあとは矢継ぎ早に、ほぼ壊滅していた宗教勢力を自らの政治的権威の下で再編していきます。

 織田信長によって徹底的に破壊された比叡山は、秀吉によって再建がはじめられ、江戸時代を通じて徳川家との深い関係をもとに再編成されていくことになります。この辺りは、徳川政権の権威の神格化と関わってきますので、もう少し後の授業で詳しく紹介します。

 また、信長の天下統一事業を妨げる最も強力な勢力であった本願寺教団/一向宗に対しては、大阪の石山本願寺の跡地に大阪城を築く一方で、東西本願寺を分断する政策を行ないます。

 顕如と教如の親子の対立から東西に分断された本願寺は、豊臣政権と徳川政権のもとでその分立が加速化され、この分断は幕末まで続きます。明治維新の際も西本願寺は討幕側(長州)、東本願寺は幕府側を支援しました。さらに秀吉は、高野山や興福寺の再編にも着手します。 

豊臣秀吉の宗教政策のブレーンは、高野山の調略に大きな役割を果たし、秀吉の政治的権威を背景にして高野山の再編を進めた木食応其(もくじき おうご/15361608でした。戦乱の時代から織豊政権の確立期において、壊滅的な打撃を受けていた宗教勢力は、全国的な統一政権をほぼ確立した秀吉の政治的権威に「飼い慣らされる」かたちで再編成されていくことになるのです。この再建の過程で秀吉は、古代の宗教的/政治的権威の象徴であり、この時期は松永久秀によって破壊されていた東大寺の大仏殿を再建するのではなく、自らの拠点であった京都にさらに大規模な大仏を建造しようとします。

 現在も京阪電車の七条駅を降りてすぐの場所にかつての方広寺の跡地があります。京都国立博物館の敷地に少しだけ当時の石垣が残っており、当時の伽藍の規模を感じることができます。現在の方広寺は後に再建されたものですので、ほとんど往時を偲ぶことはできませんが、この地域を散策すると大仏の痕跡をそこかしこに見つけることができます。

 秀吉の死後、大仏建立の事業は息子の豊臣秀頼に引き継がれます。建立された大仏殿は、大阪城や東大寺の大仏殿の大きさを凌ぐ壮麗なものであったと伝えられています。


 江戸時代に火災によって焼失しますが、100年以上京都の名所の一つとして訪れる人々を魅了しました。江戸時代に出島から日本を訪れた外国人は、将軍の謁見などのために江戸へ向かう際に京都の大仏に立ち寄り、しばしばその様子を書き記しています。

 この大仏を頂点として、秀吉は仏教の各宗派から僧侶を集めて豊臣家の祖先を供養する法要を行ない、自らの政治的権威のもとで旧来の宗教勢力を再編しようとします。これについては、この政策を受け継ぐ徳川政権の動きと関連づけながら、次回の講義で詳しく説明します。

 さらに自らの死期を悟った秀吉は、死後自らを神(豊国大明神)として祀らせるために、広大な土地(太閤坦)を造成して豊国神社を建立します。 


 死去した後も遺体を安置し、壮大な神社の完成を待って祀られた秀吉は、自ら建造した新しい大仏とこの大仏に象徴される新たな体制を守る守護神として祀られることになりました。つまり、秀吉は自らがつくり出した新しい社会秩序とそれを支える新しい宗教的権威の守護神として、自らを祀ろうとしたのです。このことについては、やはり当時の日本への宣教師の一人が興味深い出来事として記録し、その顛末をローマに報告しています。


 敵対する宗教勢力を徹底的に破壊し、自らの政治的権威を宗教的権威の上に置いた織田信長の政権を継承した秀吉は、天下統一の過程で信長と同じように宗教勢力を一掃しますが、その一方で弱体化した宗教勢力を自らの権威のもとで再編します。そして、再編された宗教的権威を象徴する大仏を建造し、この大仏と新しい社会秩序の守護神として自らを祀ります。

 しかし、その大仏の建造を端緒として豊臣氏は滅亡し、秀吉を守護神として祀る豊国神社は徳川家康によって跡形もなく破壊されます。現在は、その跡地に簡単な説明書きをした立て看板があるのみです。


 次回は、この大仏をめぐる豊臣氏と徳川氏の対立とその後の政権交代、さらには豊臣秀吉から徳川家康へと天下の守護神が移行される過程について考えます。この後に形成される徳川幕府の宗教政策が、現在にまで続く日本人の「宗教的心性」に深く関わってきます。授業の本題はここからですので、しっかり内容を確認してください。

 この授業は、オンデマンド形式です。このブログの内容を確認したうえで、下記のURLにアクセスし、グーグルフォームの質問に答えてください。


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*前回と今回の授業の内容をさらに学びたい人は、以下の文献などが参考になると思います。図書館等で調べてみてください。